エッセイ<随筆>




 小学二年生の一人旅



  小学二年生の僕は、夕焼けの街をトボトボと歩いていた。長府からの帰り道は関門海峡を望む海岸道路が長く続いているが、そんな景色はまったく眼に入らなかった。
夕暮れの混雑した街を歩いて家路にむかっていた。長府からの帰り道は子供の足でゆうに3時間はかかる。
 つらかった。さびしかった。悲しかった。
 しかし、ただうつむいてひたすら歩いていた。

話はその二年前にさかのぼる。
 幼稚園児の僕は「おばちゃん」が大好きだった。「おばちゃん、おばちゃん」とまつわりついて離れなかった。いつも一緒に居たかった。
 叔母は結婚前で家では小姑という立場だった。洋裁、茶道、華道、いわゆる結婚前の花嫁修業中であった。(現在、こういったかたちの花嫁修業はあるのだろうか?)
 当然のことながら、叔母に結婚話しが持ち上がった。お見合いの後、ことはトントン拍子に運び、結納という儀式も行われた。
 幼稚園児の僕は、ある日、真剣な顔で叔母を呼び出し詰問した。(その時の光景は今も記憶にある)
 「○○さんと結婚するの? 本当のことを言ってよ」
 叔母は結婚はしない。どこにも行かないと約束してくれた。
 大人達は、僕の雰囲気にかなり異様なものを感じたらしく、以後、僕の前では叔母の結婚の話はタブーになったという。

 結婚式の当日、僕は離れの隅に座り込んだまま動こうとはしなかった。誰が話しかけても返事もしなかった。ただ「おばちゃん、うそついた。おばちゃん、うそついた。・・・・・・・・・・」と、ぶつぶつ呟いていたという。
 叔母は文金高島田に晴れ着をきて、祖父、祖母に挨拶したのち家を出て待たせていたハイヤーに向かった。
 突然、僕はハイヤーに向かって走り出し、乗り込んだ。母はすぐに僕の後を追った。
母は僕を引きずり出そうとドアを開けたが、反対側のドアを背に足を蹴り上げガムシャラに抵抗した。
 「僕も行く! 僕も行く!・・・・・・」   
父と運転手も加わり、大人3人掛かりで幼稚園児の僕をハイヤーから引きずりだした。そして、待ち受けていた、父の友人の柔道家に固められ、身動き出来なくなってしまった。 「縁起でもないからやめなさい」という言葉を遠くに聞きながら、「帰って来い! 帰って来い! 早く帰ってこい!・・・・・・・」ハイヤーが見えなくなるまで、叫び続けた。
 嫁に行く姉をしたい、幼い弟が泣くということは決して珍しいこととは言えないが、僕の場合はいささか常道を逸していた。

 「あのこへんだよ」
 「ちょっと、おかしいよ」
 近所の大人達のひそひそ話がよく耳にはいった。
 子供たちには、おりにふれてなにかと、からかわれた。親に、あの子には気をつけろ言われた子もいたそうであった。
両親も腫れ物にさわるように僕をあつかった。
 人々は、そこに何らかの異常性を嗅いでいたと思う。
 恐るべきことに、幼稚園児の記憶が、細部にわたり五十半ばの脳細胞にしっかり残っている。
 その後、なんとか、皆の信頼を回復するのに5〜6年はかかったと思う。

 叔母が結婚して何処に住んでいるか、両親をはじめ誰も教えてくれはしなかった。
 叔母の住所を知った時は、小学校二年になっていた。
 「長府の○○会社の社宅に住んでいる」と聞いた。
 日曜日、「外で遊んでくる」と言って、朝、家を飛び出した。
 「長府って、どう行けばいいですか?」
 「長府って、何処ですか?」
道々、何度も何度も、尋ねながら歩いた。
 「○○会社の社宅って、何処ですか?」
「○○会社の社宅って、何処ですか?」
 幸いなことに、○○会社は大手企業であり、大きな社宅だったので、なんとか叔母の家に、たどり着くことが出来た。

 叔母は家にいた。昼はとっくに過ぎていた。夏の日であった。
 叔母は驚いた顔をして、眼をむいた。
 叔母は僕を家に上げ、氷の入った冷たい飲み物をだしてくれた。
 「ここに来ることを、お父さん、お母さんに言ってきた?」
 「どうして、ここが解ったの? どうやって来たの?」
 叔母は立て続けに喋った。
 「誰にも言ってないよ。長府の○○会社の社宅って聞いたんだ」
 1時間も居ただろうか、以前の叔母とは全然違っていた。とても、よそよそしかった。 「お父さん、お母さんが心配するから早く帰りなさい」
 と追い出されるような感じで叔母の家を出た。
 寂しさで、僕の小さい胸が潰れないのが不思議であった。
 「信じるもんか! 信じるもんか! おとなはみんな嘘つきだ! 嘘つきだ!・・・」 帰る道々、小さな胸にすべてをしまい込んだ。
そして、冒頭の夕焼けの空の下をトボトボ歩く風景になる。

 その後、二十歳まで叔母とのつき合いの記憶は無い。二十歳を過ぎると、ごく普通に話し合えるようになったと記憶している。
 三十歳を過ぎ、僕も結婚をした後のことである。
 叔母は時間を掛けて昔話をしてくれた。
 「こんなことがあったのよ・・・・・。こんなこともあったのよ・・・・・小さくて、全然覚えていないだろうけど結婚式の当日はこうだったのよ・・・・・」
 「へー、そんなことがあったの!」と僕。
 「子供が私を慕うとか、好きだとか、とてもそんなレベルではなかったのよ。あきらかに、それも、かなり激しい恋愛感情だった。たしかにそうだったと思う」
 「へー」と僕。
 「覚えているかどうか知らないけれど、あなた、遠い道を尋ね歩いて、私の家に突然きたことがあるの。あの時はほんとに怖かった! この子、ほんとにダメになると思った!ここで、私がしっかりしなきゃと思った。必死になって、冷たく、つれなく扱ったの。私もずいぶん辛かったけど、ほんとに良かったわ! 今は、こんなに立派になったんですもの」(立派ねー? いささか疑問があるが) 
 「へー、この僕がね。そんなことあったんだ」
 「あなたのお母さんが、やきもちをやいて・・・・・」
 (数年前、母は死んでいた)
 色々話し、たがいに笑いあった。
 しかし、知らない振りをしていたが、僕は全部、覚えていた。突然、叔母に抱きついたことも、晴れ着の色柄も、ハイヤーのシートの色も、柔道家の腕の太さも、訪ねて行った、叔母の家の入り口も、家の中の家具も、僕が何処に座ったかも、テーブルも、出された飲み物の色も、ストローも、泣きそうな気持ちで見上げた夕焼けの色も。 

 最近の言葉でいうと、これは僕の「トラウマ」ということに、なるのだろう。
 「おとなは、みんな嘘つきだ! 嘘つきだ!」
 この気持ちはズゥート、どのくらい持ち続けて、いたことだろう。
 一貫堂の会員でもある、マサミは僕より9歳年上。僕の小学校時代からの付き合いだが、その彼が言う。
 「お前は、男女にかかわらず、対人関係において、常に一定の距離を置いている。極端に言えば、自分自身にさえ距離を置いている」と。

 傷つくのはいやだ!
 豊かになれなくともよい!

 もう、6年前になるだろうか。叔母が危篤という報に接した。前々から具合が良くないと聞いていたので、それほどの驚きはなかった。
 新幹線で駆けつけると、叔母は病室には居なかった。シンちゃんとアカネちゃん兄弟が病室に居た。この二人と僕との関係はすこぶる良好である。
 叔母は意識を失ったり、戻ったりの状態であるという。そのうち集中治療室よりベットに横たわったまま、看護婦二人に付き添われて病室に戻って来た。
 暫く、僕には気づかなかったが、なんども声をかけているうちに気づいた。
 僕に気づくなり、怖い眼で睨み付けられた。小学二年の時のあの眼である。
 「テルユキちゃん、来てくれたの」と言ったまま、黙って僕を睨み付けるだけだった。 これが叔母との最後の対面となった。

 恋敵であった、叔父は現在80歳に近い。親戚の中でもきわめて親しい間柄になった。 先日も電話で話をした。
「こんどホームページを創ろうと思い、苦労してるんだ」
 「テルユキさんなら、立派にやるよ。間違いないよ。それに、ひきかえ俺はもう何にもできないよ」

 ここで話は、終わるはずであった。しかし、続きがあるのだ。書くことは許されるのか? 必要があるのか? すこぶる疑問に思うが・・・・・・・・・。

 叔母と最後に会った病室で、僕と二人きりになった時のことだ。
 叔母は僕を睨み付けながらはっきりした声でいった。
 「テルユキちゃん、好きだったよ! 可愛かったよ! 人には決して言えないが、自分の子供より、あんたの方が可愛かったよ!」
 僕は愕然とした。背に冷たい物ものが走った。恐怖で凍り付いた。
 その二日後、叔母は死んだ。

 最近、あるきっかけがあり、僕も少し変わって来つつある。
 傷ついてもいい!
 もう少しだけ豊かになりたい!


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