エッセイ<随筆>




 よれよれ三人旅(10)

 


 
 案ずるより産むが易し。
 おおよそ、三時間後の午後七時には、なんとか坂戸町にたどり着くことが出来た。あたりはすっかり夜の佇まいである。ただちに駅前の旅館に入りこむ。それは俗に言う商人宿であった。
 「商人宿」という言葉は最近耳にすることがない。当時も少なくなる気配はあったが、まだ健在であった。「商人宿」とは名前の如く、行商人が利用する宿である。よって、どんな田舎に行っても、鉄道の駅のある町には必ず在ったものだ。最近は鈍行に乗って田舎旅することが無くなったので、現在の商人宿のことは知らない。おそらく大部分は廃業し、立地条件によってはビジネスホテルとして露命をつないでいることだろう。わずか三十年で世の中は変わる。意識したくもないことだが、人間も同じことだ。どんなに大切にされようとも、新陳代謝で老人は社会から取り残されて行くに決まっている。悲しいかなや、私自身もその自覚がある。

 とにもかくにも、我々は案内された部屋に崩れ込んだ。荷物を降ろすとひっくり返る。乾いた畳の心地よさが身体を包み、心底ホッとした。雨露を避けるという他愛ないことだが、人の幸せとはこんなところにあるんだと実感する。
 どのぐらいたっただろうか、ミチさんが部屋の電話を取り、外線に繋ぐよう話しているのが聞こえる。彼は自宅に電話を入れているのだ。恐妻家で知られた彼は連れ合いには頭が上がらない。マサさんは反対に亭主関白。かく言う私は独身だった。

「あ、もしもし…うん、ああ…。そんなことはないよ、元気だから……」
 弱々しい声が聞こえる。元気なんかであるはずがない。
 明日の四月二十九日も当然ながら、ミチさんは休みの予定だった。(天皇誕生日で休日、現在の、みどりの日である)
 しかし、彼の勤務する会社は、ちょうど春闘の真っ最中で、人事課長の彼は休めなくなる可能性があった。
「…あっ、そうか…分かった…電話をいれるよ…」
 悪い予感が的中し、自宅には「電話を入れるように」という連絡が総務部長から入っていたらしい。彼が電話を切り、改めて電話を掛ける気配がする。私もマサさんも寝ころんだまま一言も喋らない。遠くで何か事件が起きているのは感ずる。

 総務部長の連絡とは出勤命令であった。
「駄目だ! あすはどうしても出社しなければならない」
 ミチさんは肩を落として報告する。ここで一人ぬけることは残念だが、我々には何とも言いようがない。
 今回の旅もそうだが、三人が「道無照会」を結成した大前提は、仕事は犠牲にしない。自分たちの置かれた現実を肯定しながら、夢を追い求めると言うことだった。むろん、すべてを犠牲にして夢を追い求めるという生き方もありうる。しかし、我々はその選択をしなかった。弁護士、課長、平社員のよれよれ三人旅である必要があった。
「それにしても、頭に来たよ!」
 と、ミチさん。
「どうしたんだ?」
 と言うマサさんの疑問に彼は答えた。
「部長め、『組合との団体交渉があるから、必ず出てこい!』と命令すればいいじゃないか。それを、ぐだぐだ言った後『君の良心に任せる』と言いやがった。なんか非常に不愉快だ!」 
 確かに不愉快かも知れないだろうが、明日は出社せねばならないことは明白だ。この当時の労働組合活動は戦闘的であった。春闘とは、総資本と総労働の対決の場でもあった。この旅も、のちに国鉄(現在のJR)のストライキで大幅に予定を狂わせられてしまう。

 取りあえず食事を済ませると、三人は坂戸駅に向かった。ミチさんを見送るためである。ミチさんのリュックはパンパンに膨れている。帰るついでに、テント、炊飯器具などの重いものをまとめて詰め込んだのだ。場所さえ選べば、シュラフだけでも野営は出来る。
 荷物は出来るだけ軽くした方が、歩くのが楽だという当たり前の結論を得るのに、これだけ苦労したのだ。あきれる程の、お粗末かげんだが、決まれば即実行である。かくして、ミチさんはリュックの重みにフラフラしながら改札を入っていった。
 ちなみに、坂戸駅から池袋までの所要時間は、東上線の急行で四十五分である。なんと、これだけの辛い思いをして歩いてきた結果が、都心への通勤圏内を出ていないのだ。
 ある意味で非日常的なこの旅も、日常的な生活圏でなされたという結果に気落ちする。

 宿を出る前に、ミチさんは渉外担当としての任務を果たすべく。M新聞社に電話を入れた。I記者と明日の待ち合わせ地点を、打ち合わせる為である。
 待ち合わせ地点を決めた後、ミチさんは事情を話し、今日はこれから帰らなければならなくなったと話した。彼が残念だといったところ、電話の向こうでI記者が慰めてくれたという。
「ままならないね。しかし、そこに三人旅の意味があるんじゃないの」
 どういう意味があるんだろう? ただこういう不測の事態こそ、I記者は望んでいたのかも知れない。さらに、マスコミすべてがこの辺に興味をもっていたに違いない。


 翌日は予定より二時間遅れて七時に起床。昨晩はビールと酒を飲んだが、十時には床に入った。その際、宿のおかみさんに、出発は六時だから五時には起こすように念を押していたのだった。
 おかみさんは、言われたとおりに何度も声を掛けたそうだが、「わかった、わかった」というばかりで、ついに七時まで起きてこなかったと恐縮していた。きっと不機嫌そうに答えたに違いない。
 午前八時に宿を出発し、国道への道を歩き始める。ミチさんが抜けて二人になったためか、何となくテンポが変わり物足りない気がする。しかし、昨夜は布団でゆっくり寝たせいかすこぶる快適である。右足首の腫れも引き、歩くのにそれほど支障はない。
 このあたりは新興住宅地で、着々と宅地造成が進められている。したがって地図は全く役に立たない。出来たばかりの道は地図に載っていないからだ。最近のように毎年、最新の道路地図が発行される世の中とは違う。十年近く前の国土地理院発行の五万分の一の地図だけが頼りなのだ。
 こういう場合は地元の人間に聞くしかない。しかし、地元の人だからといって全面的に信用することは出来ない。そのために苦い経験をしたことは一度や二度ではない。何故そんなことになるのか今でも不思議でしかたがないが、事実であった。
 私とマサさんは、国道に抜ける目標として、中学校と線路を常に念頭に置いて歩いた。

 約一時間後、間違いなく中学校にたどり着いた。ここで小休止。木造の中学校の校舎を見ると、何時も不思議な感慨にとらわれる。校舎と校庭は、昔、幼き日々、私の通った学校と実によく似ている。おそらく日本国中の校舎は、同じ考えで造られているのだろう。
 もうすぐ六十に手の届きそうな現在でも、その感性は変わっていない。
 隣に座るミチさんも、黙って校庭を見つめている。校舎の窓からこちらを見つめている少年がいる。昔の私の姿がだぶる。
 確か、丸山薫だったと思うが「学校遠望」という詩がある。他にも大木実など、木造校舎には詩人の心を打つ何かがあるのだろう。
 今の小中学生が、二十年、三十年後に、鉄筋コンクリートの校舎を眺め、私と同じ感慨に耽ることがあるだろうか。

 国道に出ると風景は一変した。ダンプが唸りをあげ、土埃をたてながら走り去っていく。連休のせいか、ドライブ旅行とおぼしき自家用車も多い。
 交通量が多く歩道のない国道を、リュックを背負って縦列で申し訳なさそうに歩いていると、脇を車で通りすぎる運転手の、我々に対する気持ちが分かるから不思議だ。
 意外なことに、ダンプや大型トラックはマナーがいい。我々に気を遣ってくれているのが分かる。反対にマナーの悪いのがバスである。何故だか悪意を感じてしまうのだ。
 乗用車は、善意と悪意に極端に分かれる。これも徒歩旅行をしなければ感じられなかったことだ。
 やはり、国道を歩くのは気持ちのいいものではない。しばらくすると二人は横道に入っていった。


 三時間歩くと昼にはまだだが、さすがに腹が空いてくる。食堂なんかありそうにないので、パンと牛乳を買い食べる場所を探す。新興住宅地で家が建て込んでいるので、適当な場所が見つからない。
「おい、あそこはどうだ?」
 マサさんが指さした。
「うん、いいね」
 そこは、民家の庭先の道路に面した所だった。三畳ほどの広さのコンクリートのスペースを芝生が取り巻いている。じつにいい感じだ!
 座り込んでよく点検すれば、なんとそこは水洗便所設備で、下水の蓋もある。しかし、実に座り心地がよく、食事も旨く食べられる。
 近所の奥さん連中が、そんな二人を怪訝そうに見て通る。ハイカーを装ったドロボーにでも見えるのかも知れない。確かにここは、まともなハイカーの訪れる場所ではない。

 食べ終わり一服していると、目の前を、釣り竿を肩に完全装備の釣り師が足早に歩いていく。地下足袋には滑り止め用のビョウが付いており、ガチャ、ガチャとアスファルトの道路をとらえる。しかも、ものすごいスピードで颯爽と歩く。
「あのスピードでは一時間とはもつまい」
 マサさんが冷ややかに言う。
「まったくだ、一日中歩いてみるがいい!」
 と私が言う。いったい二人とも誰に対して腹を立てているのだろう?
それにしても、ビョウ付きの地下足袋を履くほどの、渓流釣りが出来る沢があるはずがない。まして、こんな内陸で、荒磯など……。ひょっとしたら、彼こそ釣り師を装ったドロボーではなかったのか?

 
 
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