よれよれ三人旅(21)
休んだような休まないような、不思議な気分で出発となった。県道をこのまま進めば川原湯を通って長野原、その先の大津から北上して草津へ至る。立派な舗装道路だから道に迷う心配はない。それだけに車の往来がひんぱんで危険なことと、長距離を歩く場合疲れやすいのが欠点である。マラソンや駅伝のランナーの履く運動靴は、その点を考慮した極上のもののはずだ。安物の靴ではえらいことになること間違いなし。
多少道に迷って遠回りになったとしても緑に囲まれて土の上を歩きたい。それが三人のせめてもの贅沢と言えるかも知れない。
五万分の一で調べてみると、郷原から少し南に下ると県道にほぼ平行した道が黒線で記されている。黒線一本は幅員1.5メートルから2.5メートルの道を意味する。しかもその道は上郷というところで行き止まりになっていて、そこから県道に出る道は見あたらない。しかし、何とかなるだろう。単調な舗装道路を歩き続けるよりはよほどましだ。そう考えて郷原から南下し吾妻川を渡った。
予想通り三人の選んだルートはすばらしかった。あたり一面のあふれんばかりの緑。遠くに臨まれる山なみ。その懐にひっそり抱かれた小さな村落。清らかな水の流れ。ある村では青空高く鯉のぼりが元気いっぱい泳いでいる。
「徒歩旅行と言うからには、こういう道を歩かなくては」などと自画自賛しながら石ころ混じりのデコボコ道を歩く。
三人旅もようやく佳境に入った感がある。
いかに周囲の景観がすばらしくとも、疲れはそれとは無関係に確実に訪れる。小休止地点を地図で調べると四戸という村であった。
路傍の雑草の上で休む。すぐそばの水路には清流が激しい勢いで流れている。靴下を脱いで足を浸してみると、あまりの冷たさに初めのうちは十秒とそうしていられない。慣れても三十秒が限度だ! しかし、気持ちがいい! 歩き疲れて腫れ上がった両足を何度も何度も清流に浸す。
テレビのモーニングショーのS氏が言ったのはこのことだなと思う。
「よれよれ三人旅」の記事が毎日新聞に出たのを切っ掛けに、ラジオ、新聞などのマスコミからいくつも電話が掛かりそれぞれインタビューを受けた。
たまたま、五月のゴールデンウイークだったので、風変わりな旅の一例として取り上げられたのだろう。それぞれ仕事を持った人間が休日だけを使って、足で日本横断を試みているのが注目されたらしい。
電話によるインタビューには気軽に応じられたが、テレビとなるとそうはいかない。
モーニングショー(以前はこういう言葉があった、今のテレビ界ではどうなんだろう?)の場合、テレビカメラマンが我々に同行して道中の撮影をし、東京のスタジオでそのフィルムを撮しながら司会者のインタビューに応じて欲しいという注文だった。
三人とも仕事があるので、平日テレビ局に出向くわけにはいかないとことわったが、そこを何とかと、さんざん粘られた。さすがにこの世界の人間は押しが強い。
三人で相談するのだが、一番マスコミに協力的なのはミチさんである。出発時に竹芝桟橋に無断でマスコミを引っ張ってきたのは彼であった。マサさんは旅の企画や行動についてはうるさく注文を出すが、マスコミにはあまり興味がないようである。そして、私はどちらかというとマスコミ嫌いに属する。
「モーニングショーだって、もう筋書きは出来ている。そして、その線で番組が作られるだけだ……」と私は明確に反対した。
さすがのミチさんも、テレビニュースで放映されて以来、完全にペースを乱された苦い経験をしている。結論は断ることになった。しかし、仕事熱心なS氏は、出発時の上野駅に行くというのだ。
上野駅でS氏は待っていた。約束のホームで三人を見つけたのは彼の方だった。簡単に自己紹介をし名刺を渡された。そして、取材の目的や方法を我々に説明し、スタジオへは来ていただかなくて結構だから、とにかく撮影だけはさせてくれという。あまりの熱心さにミチさんは、協力しようよと言わんばかりに我々を見回す。
相づちを打つのみで、あまり発言しなかったマサさんが、言い出した。
「我々はマイペースで歩きたい。カメラマンに前から横から撮影されればどうしても意識しないではいられない。おそらく注文の一つや二つは出されるだろう。それは我々の意図に反する」
法律家の冷静な語り口ではっきり断った。
するとS氏もようやく納得したのか、
「よく分かりました。これ以上無理は言いません。頑張って行って来て下さい」
と気持ちよく引き下がってくれたのであった。立ち話ではあったが、彼と話しているううちに心が通ってくるのが感じられた。最後には、単なる取材対象から、本音のところで、しだいに我々の行動に共感を抱いてくれている気がしてきた。彼も又、組織に属するサラリーマンなのだ。おかげで心地よく分かれることが出来た。
その上野での会話の時、彼が撮影場面の一例としてあげたのが「疲れた足を清流に浸して休んでいるところ」であった。彼は山歩きの経験があったのかも知れない。ついでながらその時もう一つの例としてあげたのが傑作である。
「木に登っているところ」と彼は言った。徒歩旅行の情景として、木に登ることがあるのだろうか? 不思議でならない。
前置きが長くなったが、冷たい水に手足を浸し、ついでにタオルをぬらして顔や腕を拭くとさっぱりした気持ちになる。
目の前にそびえる山は岩櫃山。たしか真田幸村が拠点としていたのはこの山だったのでは? 頂上近くには岩が露出していて見るからに険しい。そこに戦略的価値があったのだろう。注意してみると岩部は大きくえぐれて洞窟状になっている。その洞窟の左右に縄が渡してあり、縄には白い紙がぶら下がっている。不思議な穴だなと思っていると、今度は山の上からドンドンと太鼓の音が響いてきた。
たまたま荷物を背負った農家のおばさんが通りかかった時、ミチさんが
「あれはいったい何ごとですか?」と尋ねた。
おばさんの返事では、毎年五月五日に行われる行事だということだった。おそらく、この地ゆかりの武将にちなんで、男の子のたくましい成長を願う行事なのであろう。それにしてもあんなに険しい山の上まで、よくも太鼓を持ち上げたものだと感心させられた。
唐堀から根古屋へ。上天気とはいえ、歩き続けてかなり疲れてきた。辺りの景色にことよせて事実上の休息を取ることが多くなるのも仕方がないだろう。
畑のそばの松林で小休止したところに、農作業からの帰りらしくリヤカーを引いたおばさんが通りかかった。ぼんやり座っている我々を見つけて立ち止まった。
「どこから来ただかね?」
東京からだと答えると、
「こんな田舎のどこがいいだかね」
と、もの好きもいるもんだと言いたげな表情をする。
「ゆたかな自然が素晴らしい」
と、もっともらしい返事をミチさんがした。
「それなら、ここに来て住みつく気があるかね」
ミチさんは、返答に窮した。こんな山の中では背広(最近ではスーツ)を着てネクタイをしめては生きて行かれまい。そうかと言って田や畑を持っているわけではない。もしあったとしても、それを耕して生業とすることは出来まい。
「こっちへ来たんじゃ仕事がないしね」
とマサさんがあいまいな返事をする。かりに彼がこの地で法律事務所を開業したとしたら、おそらく十年たっても事件なんて持ち込まれっこない。
「あんたたちは、東京からはるばるやって来たから、ここの山や川がよく思えるんだよきっと」
おばさんの言う通りかも知れない。この地で生まれ育った若者には、東京のビルやネオンがすばらしく思えるだろう。
我々が、これから新潟まで歩くと聞いておったまげたおばさん、
「まあしっかりおかせぎなさい」
と言い残して立ち去っていった。きっと「頑張りなさい」というような意味だろう。
群馬のよさを一言で表現するなら「水と緑の美しさ」ということになろうか。とくにこのあたりまで来ると山も谷も深くなる。景色に心が洗われるという言葉があるが、まさにそれである。
ところが、信じがたいことに、こうした美しい自然の中にも“町営のゴミ捨て場”が随所にある。それもわざわざ景観のすぐれたところを選んで設置されているから不思議でならない。ゴミ捨て場には必ず立て札が立ててある。“ここにゴミを捨てるな。○○町」と。 捨てられているゴミを見た。産業廃棄物や業者が処分した粗大ゴミとは異なる。家庭から出るゴミを、やっと車が通れるかという生活道路であるこんな山奥まで、東京からわざわざ捨てに来ることは考えられない。
近隣の村のものがそれぞれ、隣村の町営ゴミ捨て場に処分しあっているとしか思えない。
憤慨しながら我々は歩く。さすがに町営のゴミ捨て場を利用するだけあって、自分の家のまわりにはゴミ一つ落ちていない。庭の手入れなども行き届いたものだ。もっとも代表的な一軒の屋敷の庭にコーラの空き缶を投げ込んで天誅を加えておいた。
「やはり海は見れなかったな」
と私は思わずつぶやいた。四月にこの計画を立案したとき、三人はゴールを五月五日、つまり今日に定めていた。計算の上ではそれは可能だったのだ。毎日新聞のI記者にも自信ありげにそう語ったものだ。
だから、五月一日付けの同紙でも「連休の終わる五日、果たして三人は直江津の海を見ているだろうか」とI記者は無理と知りつつも可能性だけは残した形で書いてくれたのだと思う。
現実はどうであったか? 全行程の三分の二にも達していない。直江津の海はあまりにも遠かったのである。
なんとか川原湯までたどり着いた。次回の休日はここからスタートになる。我々もだんだん賢くなると言うか、ずるくなってきた。わざわざ重い荷物を持って帰る必要はないのだ。 民宿を見つけて、事情を話し重い荷物を預かってもらうことにした。次回は前夜この宿に泊まり、翌朝早起きして出発することにすればいいことになる。
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