エッセイ<随筆>




 よれよれ三人旅(25)

 


 
 期待通り足跡はどこまでも途絶えることなく続いていた。砂丘を思わせるように滑らかな純白な斜面。その頂上まで点々と続く人間の足跡は感動を呼び起こす。晴天の青空と白銀の台地、そして、神の足跡に従う三人のしもべ。絵であり詩でもあった。

 先頭を切っていたマサさんが、突然、声を上げ前方を指さした。二人もマサさんのいる高みに駆け寄る。
 ヒュッテだ! 眼下に見えるのはまさしく、目指す芳ヶ平ヒュッテに違いない! 足跡は、まさにそのヒュッテの入り口まで続いているのであった。
 途端に全身から力が抜けてしまったのか、ミチさんは近くにあった木陰にヨロヨロと歩み寄り、雑草の上に座り込んでしまった。
「とにかく、ヒュッテまで行こうよ」
 と、私。
「行って、渋峠までのルートや道程を聞いてこよう」
 マサさんが説得するが、
「俺はここで待っているから行ってきてくれ」
 と悲痛な声をあげ、腰を上げようとしない。精も根も尽き果てたという感じで寝転がってしまった。しかたなしに、私とマサさんは、ミチさんをその場に残してヒュッテに向かって坂を下りていった。

「今日は!」
 私の挨拶に、寝袋と布団を干していた親父が、手を挙げて微笑んで答えてくれた。顎髭を蓄え、五十歳くらいに見える。 
神様の正体はこの親父であった。我々は事の顛末を話した。
「そうか、それはよかった。俺が今朝荷物を背負って草津から登ってきたんだよ。もう一つ古い足跡があった筈だが……」
 そう言われてみれば、人間のものだか動物のものだか分からないのがあった気がする。「あれは、うちの家内がおととい降りたときのものだ」
 親父の話によれば、この季節に草津から登ってくる者はほとんどいないそうだ。横手山の方からツァースキーで降りてくる連中はたまにあるが、逆はまず無いとのこと。
 奥さんが、昨年遭難しかかった話しも聞いた。冬に草津からヒュッテに登る途中で、吹雪かれ消息を絶ったという。
「心配だったでしょう」
「いいや、全然心配はしなかった。あれは山の女じゃけん」
 吹雪かれた奥さんは雪洞を掘って一晩あかし、翌日天気の回復を待って、ごく当たり前のように帰って来たという。素人だったら完全に死んでいるところだろう。

「頂上まであと三qばかりだから頑張りなさい」
 と言って道を教えてくれた。
「しかし、その足下じゃ…でも、まあ、わずかの距離だから大丈夫か」
 神の化身である親父も、少し判断を誤ったようである。どうやら親父は、我々をヒュッテを訪れる登山者に当てはめたらしいのだ。そんな体力があるはずがない。
 一番体力と根性のないミチさんは、いったい何をしているのか、いつまで経っても現れる気配がない。丘の上にまで向かえに往く気はしない、渋峠に向かうルートとは反対なのだから。少し歩ゆみよると、彼の寝ている姿が見えた。木々の根方の雑草の上で、寝入っているようだ。
「おぉーい!」
 反応がない。何度も呼びかけた。そのうちゆっくり寝返りを打った。マサさんもやって来て、二人で呼びかける。 
「おぉーい!」
 彼の上半身がゆっくり起きあがった。

 親父に礼を言い、ヒュッテをあとにして、いわゆる芳ヶ平に足を踏み入れた。標高1,833メートル。ここが谷沢川の源流である。夏には湿原植物が咲き乱れ、多くの登山者が訪れるだろう芳ヶ平も、いまは一面の銀世界である。その雪で、残っていた一本の缶ビールを冷やし、乾杯。いざ頂上へと発進する。
 たとえ残りが三qといえども、頂上近くになるほど勾配は急になる。小休止を頻繁に行い、喘ぎながら登っていく。従うべき神の足跡はすでにない。自らが神になったようなつもりで歯を食いしばって登る。喉がからからになって、息をするたびにヒーヒー音をたてる。
 それにしても、何のためにこんな重労働をしているのだろうかと自問したくなる。腹さえ立ってくる。
 ミチさんが、汗に汚れた今にも泣き出しそうな顔で無理をして冗談を言う。
「おい、おまえら誰かに頼まれたのか?」
 マサさんがふてくされたような顔でやり返す。
「金でも儲かるのか?」
 私は可笑しくなって微笑んだ。

 ルートは佳境に入った。傾斜はますますきつくなり、崖をよじ登るような感じになっていく。私の足下はスニーカー。雪渓はアイスバーンである。腰からナイフを取り出し氷に足場を削りながら四つんばいで進む。足場は慎重に削らねばならない。踏み外せば大怪我、命すら失いかねない。横を見ると二人も同じようにして進んでいる。かといって、ここで後ずさりするなんてのは、自殺行為である。ひたすら前に進むしかない。
 遠回りでも楽なルートをとれば良かったと、後悔しても後の祭りだ。同じような事を繰り返す学習能力のない三人だった。かじかんだ手で慎重に足場を削る。うっかり失敗すれば大事になる。濡れた手は、凍えて痛みを感じる。時間が永遠に思える。

 難関は突破した。視界が広がった。思わずその場に座り込んだ。尻が濡れるなんぞは構っていられない。この先は、なだらかな登りになっている。あまり休んではいられない、ともかく渋峠にたどり着かねばならないのだ。しばらく行くと右手に平原が姿を現した。ここは「ダマシ平」といって、夏場は何でもないが、冬場には遭難者を出す恐ろしい場所なのだ。注意するようにという標識が立っている。山頂から下ってきた人が、地形が似ているためにここを芳ヶ平と錯覚してしまい、あらぬ方向に迷い込んでいくのだろう。それにしても「ダマシ平」とは面白い名前を付けたものである。

 そこを過ぎたあたりから、雪の上にスキーの跡がしばしば認められるようになった。頂上が遠くないことを示している。そのうち、上の方では時折人影らしきものが見え始めた。「後少しだぞ。頑張ろう!」
 と励まし合う。
 ところが、そのあと少しが決して容易ではない。なまじゴール地点が見えているだけにもどかしい。気は、はやるが身体がついていかないのだ。そんな我々の姿を、上で滑っているスキーヤーが見れば可笑しくて仕方がないだろう。しかし、本人たちにとっては笑い事ではない。もうなりふり構っている状況ではなかった。ほとんど四つんばいに近い姿で、あえあぎあえぎしながら、なんとか頂上にたどり着いた。
 標高2,172メートル。渋峠の頂上をついに極めたのである。

 ここで余談を一つ
三人の郷里、下関市の最高峰は鬼ヶ城山の620メートル、山口県の最高峰は冠山の1,339メートル、九州の最高峰は1,935メートルの宮之浦岳、四国は石鎚山の1,981メートル、かの有名な紀伊の大台ヶ原とて1,600メートルそこそこである。この三人が五月の渋峠の気候を想像できないからといって軽蔑しないで欲しい。

「やった!」
 三人は思わず顔を見合わせ、たがいに吹き出してしまう。顔を汗と汚れでクシャクシャにし、下半身はずぶ濡れになっている。まるでドブから這い上がってきたネズミにたいな相手の姿が可笑しくてならないのだ。ともかく、なんとか無事に頂上にたどり着いた安堵感が笑いを誘っていることは間違いない。
 ドブネズミの網膜には、赤や黄などの色とりどりの衣装が飛び込んでくる。雑誌のグラビアから抜け出したような大勢のスキーヤーたちである。そのあでやかな姿はとても我々と同一世界の住人には思えない。
 今日でこそ、スキーヤーは決して派手な服装ではないが、当時は違った。これでもか、これでもかと派手に、色彩があふれるファッションが全盛だった。今日に至って、本当の意味でスキーが国民に根付いたのだと思うのは間違いだろうか。

 次ぎに我々の取った行動の、一部始終を見ていた人があったなら、それは誠に不可解に見えたに違いない。なぜなら、ふもとから何時間もを費やして、四苦八苦しながらかろうじて頂上に達した我々は、よろよろとヒュッテまで行き、
「草津行きのバスは何時ですか?」
 と聞いたのである。
「あそこに停まっているのがそうです。もう発車しますよ」
 するとあわてて、
「おぉーい! そのバス待ってくれぇ!」
 追いすがるようにバスに乗り込むと、そのまま峠を下って行ったのである。 

 国鉄バスが動いているところを見ると、ストは解除になったらしい。くねくねと曲折した志賀草津道路をバスに揺られていると、疲れ果てた三人は何時しか寝息をたてる羽目に陥った。ズボンが、靴が濡れているなんぞは、ものの数ではない。安堵感と疲れは、我々を安らかな眠りに誘ったのである。
 草津に着くと、そのまま市営駐車場へ直行する。もうすぐ日は暮れそうである。途中のドライブインで夕食を取ることにして、車を受け取り一路東京へ向かった。
 明日の朝からは仕事が待っている。少なくとも生命の危険がなく、肉体的には楽な勤務が始まるのである。

 
 

                                 


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