エッセイ<随筆>




 悲しい現実(地球と人類) 

 この表題はアル・ゴア氏に敬意を表して付けました。


<A私ごとですが>

 新生代第4期更新世の末期か、完新世の初期に現在の日本列島がほぼ形成されたらしい。今から約1万3千年前のことである。
 私は日本列島の本州の西端、下関で生を受けた団塊の世代である。場所はJR下関駅から歩いて20分ほどの住宅地であった。そう、私は自宅で生まれたのである。当時の地方都市では病院で出産するのは例外だった。産婆さんに取り上げられた。今で言う助産婦さんである。当時は“取り上げ婆さん”という名称だった気がする。今では語感からそんな感じはしないが、尊称語だったのだ。
 住宅地と言っても新興住宅地と違い、畑や蓮田もあり、さすがに水田はなかったものの、小川にはフナやドジョウが普通に見られた。父親はサラリーマンであったが、我が家も畑を耕し戦後の食糧難時代に食料の足しにしていた。むろん祖父母も同居であった。ごく普通のありふれた家庭といえるだろう。
 我が家の畑にも、肥壺と天水を貯める小さな池があり、その他の畑の方々にも同じ様なものがあった。蓮田には蛭も多くいた。ようは今日で言う有機農法であろう。小学校では我々児童は時折、校庭に集められ、頭から白い粉をかけられた。パウダーのような粉は、DDTかBHCであった。虱、ハクセン菌の対策の為である。

 ある日を境に、トンボや蝶の姿が激減した。最初にいなくなったのは、川海老である。甲殻類が最も農薬に弱いらしい。次に蛍、川蟹、メダカと次々にいなくなった。
 学校で煩雑に寄生虫検査が行われ、虫下しが支給された。毎回支給されるのはクラスの三分の一ぐらいの人数で、毎回、人の変動があり、必ず誰もが虫下しをもらった。むろん私もその一人である。
 最近は春先になると、花粉症に悩む人が多くいる。有力な原因の一つは、寄生虫の抗体だという。寄生虫に汚染されていない現代人の抗体は、花粉に反応するらしいのだ。そう言えば年寄りに花粉症は少ない気がする。私の長男は花粉症なので、この前、目黒区にある寄生虫博物館に行って、寄生虫を分けてもらえと言ってやった。まさしく“人間万事塞翁が馬”である。
 ひよっとして、蕎麦、卵などのアレルギーも寄生虫の抗体のせいでは? これに関しては、素人である私の拡大解釈だろう。

 別に幼き日々を懐かしがってこんな事を書いているのではない。これから述べていく環境問題に関しての切り口だと思ってもう少し我慢をして下さい。専門家ではない私が環境問題を語ると、どうしても脳内妄想に陥りがちになる。そのたびに自分の経験に回帰しようと言う思いもある。そして、現存する人類の中では64億人の中の一人であり、私の体験経験もまた、極めて特殊な物である。しょせんこれから述べる理屈は、私という個体からは自由になれないだろう。

 戦後の食糧難の時代、水産業は脚光を浴びる産業であった。下関は当時漁業基地として栄え、水揚げ高世界一(本当らしい)でもあり、南氷洋の捕鯨基地でもあった。捕鯨は船団を組んで南氷洋に行く。子供達の英雄は、大型母船の船長ではなく、キャッチャーボートの砲手だった。名人と崇められた伝説の砲手もおられた。
 貧しかった私たちは、とても牛肉や豚肉には手が出ず。一銭洋食やおでんの具材として、食鯨の赤身や、ベーコンを仕方なしに肉の変わりに食べていた。(一銭洋食は、お好み焼きの元祖である)現在では、私の大好きな鯨のベーコンなどは、最高級の牛肉より遙かに高額である。同年代の漁村の子ども達は、カレーライスの具材が肉でなく、サザエやアワビだったので厭で仕方なかったという。サザエはほもかくアワビだぞ! 今日では想像できない話しではないか。

 私の父親は水産会社に勤務しており、魚の配給が度々あったおかげで、我が家は大いに助けられた。いわゆる給与の現物支給というやつである。父が配給される色々な魚を持って帰るのを、私は楽しみにしていた。 
 下関の北に位置する、仙崎魚港は戦後の大陸からの引揚者の本土上陸基地であり、また江戸時代より捕鯨が盛んで、現在、鯨の博物館もある。この近くには古くから鯛の養魚場もある。
 下関の吉見地区には吉見水産大学校がある。この学校の前身は韓国の釜山水産であり、戦後引き揚げて吉見水産大学校になった。
 大学校というのは、大学ではない。高校を卒業して入るのは同じで、就学年数も同じであるが、大学の管轄は文部科学省であり、大学校の管轄は農林水産省という違いがある。なぜそうなったか私は知らない。あまり興味もないのでこのままにしておく。

 戦後の食糧難の時代に、日本人は貴重なタンパク源である水産物を求めて、日本海、黄海、東シナ海に漁船団が脱兎のごとく駆けつけ、群がり、巾着、手繰り、トロール漁法とあらゆる漁法で魚を乱獲した。動物性タンパクを渇望していた国民は、先を競って捕れた魚に群がった。以西底引き遠洋漁業の基地下関は、殷賑を極め、当時の野球球団、大洋ホエールズ(現在のベイスターズ)のホームグランドは下関球場だった。
 反面、李ラインなるものが存在し、その線を越えた漁船は韓国に拿捕された。私の知っている人も何人か抑留された。その後、立場は逆転して、しだいに韓国の密漁船に日本の沿岸漁民は悩まされるようになった。韓国経済が発展し漁船が増加したのである。魚の乱獲は日本から韓国、台湾に移り、さらに、ペルー、中国、インド、ベトナム、インドネシアと順番に、同じようにタンパク源を求める国々に広がっていった。最近では魚類資源の枯渇が世界的な問題になっている。しかし、発展途上国の貧困な人々に、漁業資源を大切にしようとは言いいにくい部分がある。今でこそ日本は豊かになったのだが、飢餓の差し迫った状況では生命維持の問題だったのだから。

 我が家の風呂は、薪を燃料としていた。その後、石炭になり最後はガスになった。台所の竈はすぐに姿を消し、薪は使われなくなり、木炭、灯油、ガスと変化していった。飲料水は井戸から水道に変わっていった。当時のテレビで“水道完備ガス見込み”というドラマがあり、新興住宅地の明るく健康的な日常生活がテーマであった。そう、水道は完備しており、近々都市ガスの計画もあるという事である。RKB毎日放送かKBC朝日放送の制作だったと思う。
 テーマミュージックを覚えているので書いてみよう。
“水道完備ィーガス見込み、みんなの町です夢の町、雑木林も切り開きー、ドロンコ道もアスファルト、買い物奥さんペダルを踏めばー、緑のそよ風いい日だなー”
 当時の福岡市近辺の、新興住宅地の模様である。水道が完備していることが、文化的で憧れの生活だったに違いない。
 私の世代は、電線が各家庭に普及しているのはあたりまえだったが、前の世代にとってはこれこそが文化的な生活だったに違いない。半世紀前の、地方都市の風景である。

 下関の隣は宇部市であり、宇部炭坑が活況を呈していた。関門海峡の対岸は、北九州の炭鉱地帯である。ある面では炭坑と事故は付き物であり、毎年のように多くの死亡者が出た。一度に百人以上の死者が出る例も少なくなかった。当時800を数えた炭坑も徐々に廃坑となり、現在では釧路炭坑一つのみとなっている。炭鉱事故の為に延べ何万人の死者が出たことだろう。残念ながら統計を私は知らない。が、最近では死者が出た話しは聞かない。しかし、これは炭坑のなくなった日本だけの話で、中国では統計にあられただけで、2005年度は5,000人以上の炭坑労働者が亡くなったらしい。中国は石炭による発電所が多く、地下資源の関係から、石炭採掘、発電所ともに今後、ますます増えることが予想されている。石炭火力は煤煙、空気汚染、地球温暖化等、環境への影響には石油に比べてはるかに問題がある。

 およそ半世紀前の私の生活を鳥瞰してみた。意図的に綴ったのであるが、読み返してみると林業が抜けている。それが揃えば大まかに環境問題に触れたことになる気がする。林業についてはお袋の里との関係で、多少の関わりがあったが、その件は後に述べることにする。



 
 
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