エッセイ<随筆>




 悲しい現実(地球と人類) 

 この表題はアル・ゴア氏に敬意を表して付けました。


<M捕鯨と食文化>

 水産資源の最後の項目として、捕鯨とそれにまつわる食文化について述べて行くことにする。食文化はまさに文化と言うに相応しく多様であり、徐々に普遍化してきたとはいえども、まだまだ多様性に富んでいる。往々にしてそれが人種的な偏見にまでいたるので厄介である。
 鯨を食糧とする習慣はそれほど一般的ではない。現在では、アラスカやシベリアの少数民族をのぞけば、ノルウェー、アイスランド、日本が主な国と言えるだろう。ビスケー湾沿いのバスク人の居住地は13世紀以来、16世紀まで捕鯨の一大中心地であり、鯨油を取るのと、鯨肉を食する産業が発達していたらしいが、現在はほとんど聞かれない。

 さて、日本の捕鯨の歴史は古く縄文時代にまでさかのぼるそうであるが、一般的になったのは江戸時代であろう。鯨組という捕鯨専門の集団も出来てきた。私の郷里の近く、山口県の仙崎は江戸時代には捕鯨で有名であった。
 近代的な捕鯨は、明治時代にノルウェー式捕鯨技術を取り入れたことにある。初期には砲手としてノルェー人を雇い入れて技術を教わった。その後日本近海におけるロシア、アメリカ、イギリス等の捕鯨の活発化に焦りを感じた明治政府は、捕鯨を奨励し活動の後押しを始めた。
 しかし、明治政府は日本近海における鯨の保護を認識するようになり、明治42年鯨魚取締規則を発布し、鯨と魚類資源の適正な捕獲の規制に乗り出したことは記憶すべきだろう。
 その後、昭和になるとい母船式遠距離捕鯨が開始され漁場は日本近海を離れていった。日本における捕鯨の最盛期が訪れたのは第二次世界大戦後であった。大型母船式捕鯨が南氷洋にどっと繰り出したのである。その理由は戦後の食糧難による国民総栄養失調状態を改善するという錦の御旗があった。現に進駐軍のGHQ(連合国総司令部)は大量かつ確保が可能なタンパク源として、捕鯨を推進した。そして、私の郷里、下関市は南氷洋捕鯨の基地として栄えた。 

 1946年、鯨の乱獲による資源減少のための国際条約、即ち国際捕鯨取締条約が締結された。日本は1951年に加入した。1998年の加盟国は39カ国であり、そのうち捕鯨国は、アイスランド、ノルウェー、日本の三カ国である。
 条約にもとづいてIWC(国際捕鯨委員会)がもうけられ、毎年資源問題の討議を重ねている。1966年にザトウクジラとシロナガスクジラが禁漁になった。
 IWCの本来の目的は、捕鯨産業を組織立てて継続するために、クジラの管理をすることであったが、時を経るに従い資源問題の討議よりも捕鯨禁止の意見が多数を占めるようになった。クジラの保護を討議する機関になってしまった。捕鯨国は三カ国しかないので当然とも言える。そして、日本は1988年に商業捕鯨から全面的に撤退し、調査捕鯨という名目で年間500頭のミンククジラを捕獲している。
 その後、1993年にノルウェーが商業捕鯨を再開。2006年にアイスランドが商業捕鯨を再開した。2007年に日本はIWCの会議で脱退をほのめかす発言をした。

 以上、大ざっぱに捕鯨問題を概観してきたが、これからは私の考えを述べることにする。私はクジラが大好きである。むろん食品としての鯨肉である。尾のみとは言わずとも鯨のベーコンは大好物である。しかし、とても高額で手が出ない。もう少し安く手に入れば好んで食べるだろう。でも、かならずしも商業捕鯨再開を支持するわけではない。
 適切な資源管理の必要性は欠くべからざることである。自然保護の観点からも考えるべきだと思う。地上最大の動物シロナガスクジラが絶滅の危機にあると聞けば何とか出来ないものかと思う。
 一方、ミンククジラやマッコウクジラは増えているようだ。ミンククジラは南半球で76万頭、北半球で13万頭生息すると推定されている。マッコウクジラにいたっては200万頭の生息数が推定されている。
 また、クジラが食する魚の量は2.8億トンから5億トンと推定され、これは世界中の人間による漁獲量9千万トンの3から6倍であり、海洋生態系に悪影響を与えているという説もある。
 ただし、私の感覚からいくと、今一つこれらの数字を鵜呑みには出来ない気がする。調査を継続し、推定の数値をさらに厳密に検証して頂きたいものである。感情を抜きにして数量化して頂ければ、議論は落ちどころが見いだせるのではなかろうか。

「クジラが可哀想だと! ふざけんな! 俺らは奴らと違って油だけ取って肉を捨てる訳じゃねえ! 感謝して食べてるんだ。クジラが可哀想なら、ブタやウシは可哀想じゃないのか? 人種差別じゃねえか!」
 と、居酒屋でおじさんが、おだをあげていた。典型的な短絡思考と言えよう。その独断的な言動はあまり良い感じがしなかったが、一面の真実を穿っていることは否定できまい。
数年前に、テレビで見たのだが、取材陣がアメリカで環境保護団体の有力者にインタビューを試みていた。突撃インタビューなるものは大嫌いだが、そのときマイクを向けられた環境保護団体の指導者の回答はさらに私を不愉快にさせた。
 妙齢で美しいアングロサクソン系の女性はこう言いきったのだ。
「クジラを食べるような人間に話す言葉は無い!」
 私の経験で二回目であった。一度はずいぶん前の話しになるが、直接アングロサクソン系の男性に面と向かって言われた。この二人は同じ眼をしていた。口では人間と言いながら、相手を人間と見なしていない冷酷な眼であった。たまに眼にする嫉妬や憎悪に狂った眼はやりきれないが、少なくとも相手を人間と見なしているところに救いがある。
 しかし、その二人には感情の表れが一切無いのだ。心底こういう人間は恐ろしい。

 この項の題目に「食文化」と書いた。食習慣は文化なのである。人類は極端に雑食性にとんだ動物である。驚くほど多様な物を食べて生命を維持している。
そして、私の定義によると、文化とは多様性にとんで個別的なものである。一方、文明とは普遍的なもので、数量化することで価値判断の基準となりうるものであり、それは科学という別の言い方も出来る。
 捕鯨問題に関しては、科学的な調査により価値判断が可能であり、解決の道はあるだろうと述べたが、鯨食に関しては趣向でもあり価値判断の基準が成り立たない。だから問題は深刻なのである。
 イスラム教徒は戒律でブタを食べない。しかし、ブタを食べる中国人を認めている。ヒンズー教徒はウシを食べない。しかし、ウシを食べるアメリカ人を認めている。鯨肉を食べる日本人も認めて頂くわけにはいかないのだろうか?
 誤解のないように言っておく、私は鯨肉は好きだがどうしても食べたいわけではない。食べられなくとも何らの支障もない。ただ、鯨肉を好むといって人間では無いとまで思われては不愉快なのである。

 この問題をもう少し進めて行きたい。なるほど世界的に鯨肉を食べる人間は少ない。日本人が嫌われているのは無理もないかも知れない。しかもこの非難は理屈ではなく生理的な問題だから厄介なのだ。
 しかし、同じことを日本人はしていないだろか? 中国や朝鮮半島における犬肉食、台湾における猿肉食について日本人は嫌悪していないだろうか?
 根本的には鯨肉を食することに生理的拒絶をすることと同じではなかろうか。これは食文化だからと、その背景を理解をすることが大切だと思う。さらに食文化の多様性について極端にまで行き着くと、人肉食に至ってしまう。

 歴史的、地域的に人肉食は行われている。「アンデスの正餐」あるいは日本における天明の飢饉の時のように極限状態の事実は枚挙にいとまはないが、私が言うのは、日常的に食されていたことである。
 私ごときが知る限りでも、中国の宋、元時代の紅巾の乱が有名である。紅い頭巾を目印にしたことからこの名があるが、彼等は日常的に人肉を食していたようである。征服した人間、あるいは戦った相手の死体を食していた。戦場の死体はどの部分を切り取って持ち帰るかのノウハウが決まっており、またミンチとして食する料理法もあったらしい。紅巾の乱平定後も19世紀の清朝まで人肉は市場で売買の対象になっていたらしい。その商品名は「二足羊肉」という名称だと読んだことがある。ということは、名称から判断するに、人肉は羊肉と同じような味がするのかも知れない。
 誤解しないで頂きたい。私は中国を特別視しているわけでは無い。たまたま私が知っているだけであって、こんな例はいくらもあると思う。それが人間だと思う。

 さらに私の知っているもう一つの例を挙げてみたい。ニユーギニア島である。同島の面積77万平方キロメートルは、島としてはグリーンランドに次ぐ大きさで世界第二位。現在、西部はインドネシアに統治されており、東部はパプアニューギニアという独立国である。西洋文明との接触は16世紀のスペインとであった。その後紆余曲折を経て、19世紀には西半分がオランダ、東部はイギリスとドイツの植民地となった。さらに、20世紀に入ると東部はオーストラリア領パプアとなり、1975年に独立しパプアニューギニアとなっている。
 ニューギニア島は海岸部だけに人が住んでいたと思われていたが、高地(三千メートル級)にも非常に多くの人が住んでいるのが分かり、オーストラリア人(白人)とニューギニア高地人が接触をもったのは、1930年であった。この時までは、この高地民族は独自の閉鎖社会として歴史に登場してこないものの、原始社会ではなく自己完結をしたエコ社会を組織し、ある程度の社会制度は整備されていた。つまり、独自の文化を形成していたのである。

 特筆すべきは、この高地人の間では人肉食が普通に行われていたのだ。おったまげて腰を抜かしたのは宣教師である。
 まず、彼らは別の部族と戦闘をした場合、死者を食べたのである。戦闘で死んだ者の勇気を体内に取り入れるという儀式らしい。
 もう一つは、親近者に死人が出た場合も、死者の霊魂を引き継ぎ、死んだ者が生きている者の中で生き続けるように、身内が集まり、死者を食べたのである。
 そして、宣教師から死者は土葬にするものだという話しを聞いた高地人は、怖じ気ふるって気味悪がった。土葬にするのは死者に対する冒涜だと思ったのだ。その後、今日では高地人に人肉食の習慣は無くなった。宣教師による教化もあっただろうが、私は動物性タンパクが他の方法で摂取出来るようになったのが大きいと思う。ニューギニア高地には、動物性タンパクが不足していたのでこのような習慣が出来た気がする。

ことほど食文化は多様なのである。私にはニューギニア高地人の食習慣を非難しようという感情は気薄である。その生活背景が理解できるせいかも知れない。
 昭和20年から30年代の初めにかけて、飢餓状態にあった日本は動物性タンパクが極度に不足していた。私などにとって、牛肉や豚肉は高嶺の花であった。よって鯨肉を食べていた。学校給食で肉がでると必ず鯨肉であった。占領軍のGHQもそこのところを配慮して、捕鯨を奨励したのである。犬肉食、猿肉食も必ず同じような背景があったはずである。
 
この項で私の言いたいのはただ一つである。具体的な例として、鯨肉、及び食習慣を持ち出したが、言わんとすることは文化というものである。各民族、地域、それぞれの時代によって極めて多様であり、客観的に善悪の価値判断は出来ないということである。
 一方、文明については数量化により価値得判断の基準が成り立つと言うことである。この辺の分別が混同すると悲劇を生むと思うのだがどうだろう?
 かといって、私は文化を軽視しているわけではない。考えてもみよう、個人の幸福なるものが数量的に価値判断できずとも、これほど大切なものはなかろう。
 


                        
 
 

                                 


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