第三章、平原の月と狼<15>
陽が少し傾きかけている。戦闘行為は一時中断となったが、ネストル連隊における喧噪は激しくなっている。怒号と、指示が乱れ飛び交差する。負傷兵の介護と、飛んで来た弓矢の整理、ほころびを見せた陣地の再構築のために、兵士が動き回っているのだ。飛来した敵の弓矢は、次の戦闘では貴重な武器となる。
壕に積み重ねらられた敵の死体、あるいは原野に無数に放置された敵の死体を片付けるものは見あたらない。メディア軍には、死体を収容する余裕もないようだ。もし、収容のための動きが有れば、長弓隊の射程に入らねばならぬので、いかんともしがたいのであろう。彼らは、次の攻撃準備の作戦を立てているに違いない。
戦場を渡る風が、ネストルの頬を撫でていく。小さな砂が端正な彼の顔面を打つ。風は微かな血の臭いを運んでくる。
喧噪のただ中で、彼は表情を変えることなく遠くのメディア軍を見つめていた。少しでも動きが有れば直ぐに反応するぞ、という意思が窺える。
しかし外見とは違い、ネストルの胸中には複雑な思いがよぎっている。それは一種の虚無感のようなものであった。彼の考案した長弓戦法は劇的な効果を発揮した。戦場に横たわる、敵の多数の死体を見れば明らかである。一方、味方に負傷者は多いものの、死者はほんの僅かであった。
これほどの殺戮兵器は、今だ嘗て出現したことはなかった。それは圧倒的な有利さをキュロス軍に与えた。それは放置された敵兵の死体を見れば明らかだった。
ネストルは思う。彼は本来メディア軍の将軍でしかるべきであったのだ。キュロスの父王の請われて、ペルシャの地を踏んだのだ。ネストルのペルシャ行きは、オロデスの策略であったことは直ぐに知らされてしまった。
それは、パルコス将軍、アリウス執政官が非業の死を遂げるに至って確信に変わった。彼の畏敬する先達は次々に倒れていった。メディア王国の権力はオロデスに集中してしまったのだ。オロデス執政官の最後の仕上げが、今回のペルシャ鎮圧戦である。
運命の悪戯か、あるいは何らかの使命を神が与えたのか、オロデスに立ちふさがる役割をネストルが負う結果となっている。
不思議と、ネストルはオロデスに個人的恨みは抱いていない。そもそも身を焦がすような憎しみを感じたことはない。恋情においても同じ事が言えた。いま彼にとっての現実感は、この戦場のみである。小高い丘の上から見下ろす彼の意識は、屍と次の攻撃に対処することしかあり得ない。
エクバタナでの日々が去来する。パルコス、アリウス、サティー……この世の者ではなくなった懐かしい人々が思い出される。ネストルの心の中にだけ、思い出として蘇る。彼の妻となったヤクシーは、二人の子をもうけ、戦場からそう離れていない、ペルシャの都パサルガダエ城に待機している。この戦場の勝敗が、彼等の運命を決するのは明らかである。しかし、ネストルに取っては、エクバタナの日々と同じく、妻子のことも現実感を感じられない。記憶の中にのみ存在しているといった方が適切な様な気がする。
「将軍、次の指示をおねがいします」
遠くで、声がする。記憶の彼方から聞こえて来るのだろうか。
「将軍……」
ネストルの瞳に、ゆっくりと輝きが戻った。
「何だ!」
いつもの冷静な声が発せられた。
「指示をお願いいたします」
巌のような筋肉の鎧を付けた男が立っていた。上背はあまりない。
「おお、トリトン殿か」
歴戦で鍛えたトリトンは、不思議そうな顔でネストルをのぞき込む。そして、すぐに安堵の色を顕した。そこに常と変わらぬ、将軍の褐色の涼やかな瞳を見たのだ。
「負傷兵の処置、陣地の補修は終わりました。次の指示をお願いします」
トリトンからは、戦闘による興奮は窺えない。歴戦の強者らしく、ごく普通の態度を維持している。
「解った。トリトン殿、ライオネスを呼んできてはもらえまいか」
「承知致しました」
ネストルは、トリトンを対等のように話しかける。しかし、トリトンの方は上司に対する態度を崩さない。
トリトンはライオネスを呼びに行った。暫くすると痩せて上背のある若者を連れてきた。ライオネスである。
「ライオネス、全戦に伝令を頼む。おそらく今日はメディア軍の攻撃はないだろう。しかし、夜襲の恐れはある。かねて申していたように、用心のためにその準備に移るように各所に伝えよ」
「はっ、承知致しました」
ライオネスは騎馬隊のところへ駈け出した。一刻を待たずネストルの指令は全線に徹底されるだろう。彼はそのような組織体系を築き上げていたのだ
「トリトン殿、本格的な戦闘は明日になると思われる。しかし、念のためである」
「承知致しております」
その後、ネストルはトリトンに詳細な指示を出した。全戦に渡って空堀の手前に、長大な篝火を焚く準備に入ったのだった。
ネストルは、戦況の報告をつぶさに受けていた。キョロスをはじめ主だった幹部に負傷者はいなかった。
激戦は中央と南部で行われ、北部では激しい戦闘は行われなかったようだ。その為に、北部の兵士五千を中央に回したが、今は元の部署に戻している。
「将軍……」
「おお、コカロス殿か」
がっしりした体格のコカロスであった。戦闘を経た彼の風貌は、眼がぎらつき野獣のように見える。
「初戦は大勝利でござりましたな」
コカロスの顔から豪快な笑みがこぼれた。
「さよう、思った以上の勝利であった。しかし、明日の戦いはこうは参らぬ」
「と言うことは、将軍は今日の夜襲は無いと思われているのでしょうか?」
「多分ない」
「では、オロデスはウラノス二世、パリス将軍の到着を待つつもりだと……」
コカロスの言葉に、ネストルは頷いた。
「最初から、パリス将軍の到着を待てばよいものを。何故に彼等は攻撃を急いだのでしょうか」
戦力の集中は作戦の基本である。
「オロデス執政官の性格と、彼にとって今回の戦いの意味がそうさせたのだ。我が軍の三倍の兵力を持つ彼は、パリス将軍の助けを借りたくなかった。パリス将軍の声望を妬んでいる節がある。レムルス将軍にも、パリス将軍を凌ぎたいという野心がある」
「なるほど、将軍は敵の指揮官の性格をも把握されておられるのですな」
「しかり、指揮官の性格は必ずや戦術に現れる」
ネストルの脳裏には刻み込まれていたことがある。かつてのアッシリア帝国との天下分け目の決戦にあたり、パルコス将軍はアッシリア皇帝、アッシュル・ウバリト二世の性格と行動様式を徹底的に研究したのだった。
戦場において、作戦通りに事が運べば容易なことであるが、相手が思い通りに動くとは限らない。事前に徹底的に作戦を錬ることは不可避であるが、最終的には司令官がその場で判断せねばならぬ事が殆どである。
ネストルは、偵察隊より報告を受けていた。パリス将軍旗下の兵が、砂漠を越えて明日にもこの戦場に到着することを。
「パリス将軍は、明日にもこの場に来るであろう」
「明日到着するのならば、兵の疲労を考えると、直ぐに戦闘が始まるとも思えませぬが」
「さよう、一日は兵を休め、陣形を立て直すのが常套である。しかし……」
「しかし、と申されるのは?」
「オロデス総司令官の性格である。彼は必ずや、到着したばかりのパリス軍を前線に送り出し攻撃を始めるはずだ」
パリス軍の進路は、峻厳な砂漠越えの連続であろう。その過酷さは、兵を散逸せずに進軍することですら困難を極めたはずである。
ネストルはメディア軍の編成を知り、各軍の進撃路を探知したときに思った。オロデスは、パリス軍がこの戦場に到着するのを必ずしも望んでいないことを。戦闘が終了したときに、此の地に到達するか、むしろ砂漠に消えてしまえばそれも良しと考えて居るであろうと推察できる。
ザクロス山脈の北面。カビール砂漠を掠め、焼け付く岩石地帯が続くパサルガダエに向かうルートは、地獄の釜の中を進軍するに等しい。砂漠の行程に慣れた小集団の隊商ですら避けて通るルート、いや、ルートと呼べる道程ではない。
偵察隊の報告を受けたときに、ネストルは感嘆した! 統率の取れた六万人の軍団があと一日でナムダ河畔に到着するのだ。オアシスとて疎ら、食料はおろか水さえもままならぬ強行軍にして、一糸乱れぬ統率が取れているという。まさに奇跡であった。パリス将軍にしか出来る技ではない。勇猛果敢にして、指導力抜群さらに任務を忠実に果たす軍人の鏡ともいえるパリス将軍にしてこそ可能なのだ。
パリス将軍は、建国の英雄、老ウラノス将軍の嫡男という貴人で在りながら、あえてパルコス将軍の配下に属し、戦術を学んだ生粋の軍人であった。彼は戦いに臨むに当たり必ず朱の兜を被る。パルコス将軍の後継者を自認しているのだ。むろん、ネストルとても同じ気持ちであり、今も朱の兜を被っている。
パルコス将軍旗下において、二人はライバルであり、お互いの力量を認め会う仲でもあった。
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