第二章 エクバタナの春<7>
「話しは長くなるが、まず順序立てて述べましょう。貴殿もご存知だろうが、我々アーリア民族は、西はギリシャから東はインドにいたる広大な地域に広がっておる。その証拠の第一は言語である。互いの間における意志の疎通に困難はない。第二は宗教上の同一性である。ギリシャの神々、インドのヴェーダを代表とする、多神教的かつ地域民族的選民思想である。私は、選民思想に大きな疑問を抱き、二十歳のおり隠遁生活にはいり、十年間の修行を積み、前述したごとく、三十歳のとき天啓をうけた」
ここまできて、ゾロアスターの話しは途切れた。
「娘さん、私の話は退屈かな?」
「いえ、そんなことはございません。私もたいへんに興味がございます」
サティーは少し首をかしげ、金髪を掻き上げると微笑んだ。
「考えに考えていた、私の脳裏に、神がスーと入ってこられたのは、山頂での明け方だった。暗黒の世界から立ち昇る太陽とともに、神は私に憑依されたのじゃ。神は名をアフラ・マズダと申された。『我こそ神である、他に神はいない。全宇宙の主であり、いっさいの創造物、現世、未来の創造者たる唯一神である』との言葉を賜ったとき、私は感動に打ち震え、ぼうだの涙は留まることをしらなかった」
「憑依されたとは・・・・・」
「真っ暗な大地に、かすかに光が漏れてきた。光は無数の直線となって、大地を突き刺し始めた。そのうち、橙色の光に天地も我も染められてしまった。我が髪は逆立ち、身体は発光体となって輝きはじめた。その時、私の脳髄は、割れるように痛み、神の言葉に共鳴をはじめたのじゃ」
付き人の三人は両手を合わせ、額を石段に付けると、低く祈りの言葉を称え始めた。
「アフラ・マズダはすべてを創造された。神の前では、すべての被創造物は平等である。選民思想など入り込む余地はない。その詳しい内容については、私の述べたことをまとめてある、アベスタ教典をごらんになられるがよい」
春の風は穏やかに吹いていた。
アリウス、サティー、そして三人の付き人は、ゾロアスターの話しに聞き入っていた。
遠くから聞こえてくる、市場の喧噪の響きも、アリウスの耳には心良く感ずる。
ゾロアスター教学においては、この世を、神アフラ・マズダと悪魔アンラ・マンユの闘争の場として位置づけており、最後の審判、最終戦争を経て、アフラ・マズダが勝利するとした。
霊魂の不滅、天国と地獄の概念、そして、終末論と復活による世界再建。
これらの概念は、ゾロアスター教をもって嚆矢とする。
後世、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教に与えた影響は、計り知れないものがある。
「宗教の父」と称されるのも、もっともなことである。
ゾロアスター教の聖典「アベスタ」のヤナス章ガーサーは、最も古く成立しゾロアスター自身の教説といわれている。
その中に述べられていることで、明らかに後世の教説と異なる部分がある。
すなわち、悪魔アンラ・マンユはアフラ・マズダの分身であり善神スペンター・マンユもまた分身であり、アフラ・マズダ自身の内に統合されるとしている。
明確な、一神教、二元論であった。
「私が、説きに説いてきた考えも、私の生存中にすら変容してきている。私の後半生は、変容を正すための活動に終始することとなってしまった」
ゾロアスターからは、狂信的な宗教者の熱気は放射してこない。
アリウスは、義父、アナクシマンドロスの、枯れて悟りを開いた姿を見た気がした。
「老師、何故に変容するのでしょう?」
「布教し、大勢の人々に支持されるには、或いは仕方のないことやも知れぬ。人々の共感を得るには、彼らの感性にそう必要もあろう・・・・・数百年の後、私が生まれ変わり、今と同じ教えを説くならば、おそらくゾロアスター教の異端として、糾弾されることであろう・・・・・」
ゾロアスターの長い話しは終わりを迎えようとしていた。
偉大な宗教家の説法は、ことばの一つ一つが、聞くもの心に共鳴し続ける。
「私は、エクバタナをもうすぐ後にする。生のあるうちに再びこの地を踏むことはあるまい。娘さん、あなたは初めてお会いしたときから私の心を打つものがあった。つらい過去があったかも知れぬが、あなたはもう既に救済されておる」
サティーは手を合わせたまま、俯いてゾロアスターの発言を聞いていた。
瞼は、涙で滲んでいるようだった。
「アリウス殿、貴殿は業の深いおかたじゃ。並のかたちでの救済はありえない。血脈につながる呪いをとくには、悪魔アンラ・マンユの劫火に焼き尽くされる必要があるやもしれぬ・・・・・しかし、貴殿は必ず神の救済を授かる。これは、間違いのないことだ・・・・・」
ゾロアスターの予言は、矢となってアリウスの魂を射抜いた。
薄水色の双眸は虚ろとなり、焦点は何処にも定まらず虚空を浮遊しはじめた。
左手の細く白い指は、琥珀のペンダントを握りしめている。
遠くから、ゾロアスターの声がかすかに聞こえてくる。
「アリウスよ、そちは・・・・・必ずや、救済されるであろう・・・・・」
アリウス邸は静かな午後を迎えていた。
彼が、書斎でパピルス紙に、羽根ペンを走らせていたときのことだ。
「ネストル様がお見えになりました!」
ヤクシーがこぼれんばかりの笑顔で書斎に駆け込んできた。
門番から、連絡があったらしい。
「応接室にお通ししなさい」
今日の午後、ネストルの訪問があると、アリウスは、前もって聞いていた。
かなり重要な話しらしい。
書類を片付けたアリウスが、応接室に入ると、ネストルとヤクシーは声をあげて笑いながら話していた。
「ヤクシー、今日はネストル殿と大事な話があるので、君は遠慮しなさい」
「はい、わかりました」
そう言うと、ヤクシーはつまらなそうに、出ていった。
「アリウス殿、話しと云うのは他でもございません。オロデス閣下のことです。どうも、不穏な動きが、近頃めにつくのです。アッシリアの残党も気になります。彼らの影もみえかくれしております」
「まさか、オロデス殿が謀反? それはありえない」
アリウスは言下に言い放った。
「謀反というわけではありません。彼は権力欲の強い野心家です、自らの権勢を盛んにするためには、手段を選ばないところがあります。かつて、いかに策略をめぐらし、人をおとしめたことか・・・・・アリウス殿、くれぐれも、お気をつけ下さいますよう」
「私は、オロデス殿と張り合う気はまったくない。彼の権力が、脅かされる要素はないと思うが?」
「アリウス殿、考えてもみて下さい。あなたの存在がなくなれば、彼は今より遙かに自己の権力欲を、発露出来るでありましょう。彼にとって目障りなのは、パルコス閣下とアリウス殿です。パルコス閣下は、あまりにも位が違うため手を出せぬでしょうが、あなたは危険であります」
「なるほど、そのようなことも、ありうるな。注意しよう」
アリウスは同意するとともに、ネストルの好意に対しては深く感謝した。
しかし、どうにもピンとくる切迫感が起こらない。
他人の出来事、舞台での劇のように思えるのだ。
アリウスの同意を聞くと、ネストルは、身を乗り出すように言い出した。
「私も、手の者を使い情報を集めます。十分に注意を払い、お役に立つ所存であります。それからフラーテス、この男にもご注意願います。裏でオロデスと繋がっていると思われるのです・・・・・」
アッシリアとの大戦が終わり、平和が訪れるとつぎに始まるのは、宮廷内での暗躍であり、陰惨な権力闘争である。
アリウスは、記憶を呼び戻す。
にたような例は、歴史を紐解くと枚挙にいとまがない。
ギリシャ世界でも、日々繰り返されて来たことではある。
人間の性としか、云いようがないのだろうか?
ネストルは急いでいた。
ヤクシーに対する挨拶もそこそこに、あわただしくアリウス邸を後にした。
取り急ぎ、アリウスに身の危険が迫っていることを、知らせにきただけらしい。
「ネストル殿、悪いが帰りの馬車に同乗させて貰えないだろうか?」
「えッ、一向に構いませんが、何処に行かれるのですか?」
「市場まで、お願いしたい」
「お一人ですか?」
「いかにも、一人です。白昼、人の群れる市場で、襲われることも、ないでしょう」
ネストルは困ったもんだ、というように顔をしかめた。
しかし、強いて諫めることはしなかった。
アリウスはネストルの馬車に同乗させてもらい、市場でおりた。
そのまま、邸内に留まる気にはなれなかった。
市場の喧噪に身を置くことで、やすらぎを得ようというのだ。
時々、このように、市場を利用する。
市場の喧噪は、アリウスにとって、心のシャワーといえる。
ざわめきの中に身を浸すと、不思議に、身に付いたわだかまりが、洗われるような気がするのだ。
アリウスは憂鬱だった。
人間の性は、悲しいものである。
彼の生地ミレトスでも、幾度も繰り返され、悲劇を生んだ権力闘争と、それにまつわる陰謀、裏切り、殺戮。
今、アリウスがこの地に居るのもそれが原因といえる。
権力とは、富貴とは何なんだ。人を引き付けて止まないそれらは、人間性の本能に根ざすものであるか?
希望、目的、自分にとって人生の目的とは?
それらは人間にのみ、神より与えられた、美しくも、おぞましい、観念という魔物ではなかろうか?
市場の喧噪の中、歩みを進めるアリウスの思考は、歩調に合わせるように動いていく。
ドレーパリーの裾が、ひるがえるたびに見え隠れする足下では、革のサンダルが、アリウスの白い足を、編み上げているのが眼に入る。
生きる為には、目的が必要なのか?
自分の計る社会的連帯感の確立とは、人々に寄る辺を与えることなのか?
言い方を変えれば、生きる目標を与えることかも知れない。
自分の目標すら解らないこの、私が?
社会的連帯感の確立とは、共同幻想を生み出すことか?
まさに、観念の所産ではあるまいか?
市場の前で馬車を降りて、どのくらいの時間が経過したことだろう。
アリウスは、とりとめのないことを考えながら、あてどもなく広い市場を歩き続けた。
春の、野菜果物市場は本当に色彩にあふれている。
確かに、鮮やかな色彩はアリウス視界には入るのであるが、網膜より中に至ることはない。彼は別のことを考えている。
(あるいは、危険が身に迫っているのだろう。ネストルが、あれほど真剣に忠告してくれたのだ。しかし、どうにも今ひとつ実感が湧かない・・・・・)
気が付くと、ゾロアスターに出会った広場に出ていた。
老師はこの地を立ち去った。二度と、相まみえることもなかろう。
アリウスにとって、彼との邂逅は、宿命的なものを感じさせる何かがあった。
人々は三々五々、一塊りとなり楽しそうに談笑している。
心地よい風情に身を包み、しばらく休息をとったのち、再びアリウスは、あてもなく歩き始めた。
ふと気づくと、アリウスは今までみたこともない建物の前に立っていた。
どうやら、市場の外れに来たらしい。
レンガ造りの高い壁が、周囲を取り囲んでいた。壁に隠れて建物の屋根は見えない、いやそもそも建物が、有るのかどうかも解らない。
入り口とおぼしき所に、頑丈そうな木製の扉があった。
巨大な扉を囲むように、レンガが上手く組み上げられている。
不思議な建物に気を取られているアリウスに、背後から声がかかった。
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