第四章 救済の劫火<1>
アリウスの虚ろな脳裡のなかで、廻りの空気がゆっくり動いていた。彼の脳裏に映る景色全体が奇妙にゆがんでいる。身体が奈落の闇に引きずれれそうになって足掻いている。精一杯、手を延ばそうとするが掴むものがない。それでも彼は、必死に何かを掴もうとあがく。しかし、掴めるのは虚空だけだった。アリウスは、なぜか自分の身体だけは実体を感じている。
アリウスは意識の片隅で、夢を見ているのではないかと自覚し始めた。眼の前に白い膜が掛かった。ゆっくり瞼をあけようとし、射し込むような強い光にまた閉じる。同じ動作を何度か繰り返した。
しだいに慣れてきた彼の眼に、灰白色の平面がぼんやり映った。どうやら天井らしいとアリウスは思った。
「アリウス様!」
頭が次第にハッキリしてきた。アリウスには聞いたことのある声だった。
「・・・・・」
「アリウス様!」
「サティー」
アリウスは小さく言った。自分は今、エクバタナにいるのだと悟った。
「ユイマ! アリウス様が気づかれたわ!」
「本当ですか!」
ユイマの声だ。アリウスの失われていた記憶が次第に戻ってきた。
サティーとユイマの姿がぼんやり見えてきた。背後の部屋の壁はすべて灰白色に塗られている。この家に住んで数年、アリウスは初めて壁の色を意識した。
アリウスは襲撃されたことを思い出した。耳の側を矢が空気を切り裂く音が蘇り、そして、パルコス殿に助けられた・・・・・。
そこまでで、記憶が途切れた。それ以後は、意識を失ったらしくどうしても思い出すことが出来ない。
「アリウス様、どうか、お気をしっかり。かすり傷ですから」
眉をしかめて、覗き込むサティーの顔がアリウスの目の前に見える。側には心配そうに控えているユイマが見えた。
アリウスが軽く手を握ると痛みが走った。どうやら手が傷ついているらしい。両手を少し挙げて見ると白い包帯が巻かれていた。何時傷ついたのか、彼には記憶がない。
「あんなにきつく、薔薇の茎を握りしめるんですもの」
サティーが、痛そうに顔をしかめて言った。
「私が、薔薇の茎を握りしめた?」
アリウスには、どうしても思い出せない。胸の奥から深い吐息が出た。
「アリウス様、布を交換いたします」
そう言うと、ユイマがアリウスの額に乗せてある、濡れた布を取り除き、側においてある大きな皿の水に浸した。
固く絞ると、また布をアリウスの額に乗せた。その時、ユイマの薄水色のドレーパリー
が、アリウスの顔を微かに撫でた。
「ユイマ、ありがとう」
上掛けが、寝台に横たわったアリウスの胸まで掛けられていた。
「サティー、私はどのくらい意識を失っていたのだ?」
「まる一昼夜です。ずいぶんうなされて居られましたわ」
「・・・・・うなされていた? 何か言っていたか・・・・・?」
アリウスは慌てた。背筋に冷たいものが走った。
彼の心の中には、決して人には言うことの出来ない闇が存在している。それを知られることは、人格の崩壊を招きかねないのだ。
「言葉は聞き取れませんでした。でも、ひどく苦しそうで、一時は身体じゅうから汗が吹き出ておられました」
アリウスはホッとした、二人には何も知られていないのだ。
しかし・・・・・と、アリウスは首と後頭部を触った。、やはり汗を掻いた形跡がない。
「あッ!」
思わず声がでた。下帯が無いことに気づいたアリウスは、口を半開きにのまま、茫然としてしまった。
驚愕したアリウスは、股間に延ばした手を思わず引っ込めた。
ドレーパリーの下には、何も身につけていない。この家の主人である威厳はどこへやら、自らの立場も省みずアリウスはうろたえた。
サティーは、アリウスのうろたえようを、不思議そうに見ていたが、やがて、何でうろたえているのか気づいたらしい。
「アリウス様が、ひどく汗を掻いておられたので、二度ほど、ユイマと二人で身体を拭かせていただきました」
「ユ、ユイマと・・・・・」
云いようのない羞恥心に襲われ、アリウスの顔が火照った。
「・・・・・ありがとう。世話になった」
やっとの思いでそう言うと、アリウスの身体から力が抜けていった。
困惑と諦めの後に、気怠さが身体の節々にまで浸み渡ってくる。アリウスは、また微睡み始めた。
どの位時間が経ったのだろうか、アリウスは再び目覚めた。先ほどとは異なり、今度の目覚めは清々しいものであった。
室内は穏やかな空気に包まれている。どうやら、アリウスは、短いながらも本当の休息を得た気がした。
サティーの姿は、見当たらない。別室で休んでいるのだろうと思った。ユイマは、寝台の側の椅子に腰掛け、アリウスの横たわる寝台に手を延べ、俯いて眠っている。どうやら二人とも、アリウスの穏やかな寝姿に、安心して休んだのだろう。
アリウスは寝台の上に身を起こした。プラチナブロンドの髪を掻き上げると、深く息を吸い込んだ。首筋を穏やかな風が撫でていく、寝汗も掻いていない。風の色は、僅かに薄緑色をしている。その薄緑の中には、微量ながら紅薔薇の香がまじっている。
白いシーツの上に、眼を閉じたユイマの横顔が見える。耳を近づけると、細い寝息が聞こえてきた。軽く閉じられた眼に長い睫毛が巻いている。小さめの赤い唇、素直に延びた鼻筋、優しい頬、爽やかな少年の顔がそこにあった。
ユイマの白い腕に、金色の産毛が輝いている。その腕に、端麗な顔を預け安らかに呼吸をしている。
金髪の一部が額に垂れ、残りはシーツにばらけている。細い寝息と呼応するように、毛先が微かに震えていた。
アリウスは、ユイマの首筋の金髪をそっと掻き上げると、唇を近づけた。細く白い、しなやかな少年の首筋だ。アリウスの唇が、うなじの産毛をそっと撫でる。
アリウスにとっては、気負いのないごく自然な行為であった。感情の高ぶりは緩やかに波うっている。
「うッ・・・・・」
と、微かな声が、ユイマの唇から漏れ、横顔が少し仰向けに動いた。何を夢見てるのだろうか? 穏やかな寝顔だ。
穏やかな薄緑色の春風が、紅薔薇の香りを含んでゆっくり流れていた。
夕食は、サティーと御者の妻が用意する。肉類は処理された物を市場から定期的に運んで貰うが、必要があれば、羊や鶏の解体もおこなう。
解体作業は、専ら御者の役目になっている。当初は、ユイマも手伝っていたが、アリウスに止められ最近は殆どしなくなった。茫々たるステップ平原育ちのユイマにとって家畜の解体そのものは手慣れた作業であったが、なぜだかユイマがそれを行うのをアリウスはひどく嫌った。
搾乳等、家畜の世話は難なく出来るユイマだったが、この屋敷にきて以来、それらをすることも無くなった。
サティーは、アリウス邸に来て、初めて調理というものを知ったらしい。先生は御者の妻であった。彼女は、すぐに料理の腕を上げ、今では御者の妻を凌ぐ腕前になった。彼女自身の器用さと、美食により料理の味に精通していたせいであろう。
一階の食卓に、サティーが料理を並べだした。それをユイマが手伝っている。
「ユイマ、その皿はもう少し手前に置いて」
「これでいいですか」
「その、肉の大皿は、もう少し真ん中に」
料理の並べ方に関しては、サティーの独壇場だ。特別な美的感覚があるらしく、実に綺麗に配置する。
昨日から食事を取っていないアリウスは、さすがに空腹を覚えていた。二人の動く様子を、テーブルの椅子に腰掛けたまま、静かに見つめていた。
サティーとユイマの顔にも安堵の様子が窺える。
料理も並べ終わり、サテイーとユイマも席に着くと、静かに食事が始まった。ヤクシーが居れば、とてもこうはいかない筈だ。明るくはなるが、騒がしいことこの上もない。少し物足らない気もするが、アリウスはこの方が楽だと思っている。
アリウスは葡萄酒を飲みながら、羊肉を口に運んだ。アルコールと肉汁を細胞が吸いあげ、力がみなぎる感じがする。
ユイマが遠慮がちに、話しを切り出した。
「アリウス様を襲った賊の件ですが、宜しいでしょうか?」
アリウスはハッとした。彼はまだ賊に襲われた顛末をまだ聞いていないのだ。
「賊はどうした?」
「賊は二人でした。オリオン様が真っ先に駆けつけると、太刀で一人の胸を突き刺し、すぐに抜くと、返す刀でもう一人を、袈裟から切り下ろしました。一瞬のうちに、賊を絶命させたのです。あまりの見事さに、私が手を貸す暇もありませんでした」
「そうか、さすがはオリオン、鮮やかなものだな・・・・・だが、ユイマよ、お前は絶対に危険に近づいてはならぬ」
ユイマが少し不服そうな顔をした。オリオンに武術を習っており、もう子どもじゃないんだとでも言いたげに。
アリウスは、ユイマの気持ちに一向気づかない。ただ、『オリオンの腕前ならそうかもしれぬ』と感心するばかりだ。
「鮮やか過ぎたのです。その後、パルコス様に、オリオン様は強く叱責されました。『手がかりが無くなったではないか』と」
「殺してしまっては、確かに何も聞き出すことは出来ぬな」
どう見ても、話しの主導権はユイマにある。まだ、とてもアリウスの頭脳が普通の働きをしているとは言えない。
先ほどまで明るく振る舞った居たサティーが、襲撃の会話になって以来、額に僅かに皺をよせ、視線を下ろし、力無く手を合わせている。何か心に引かかることがあるらしい。
食卓の、葡萄酒の壺が空になった。
「僕、葡萄酒を取ってまいります」
と言い、ユイマが立ち上がり掛けたとき、サティーは、我に返ったように言った。
「ユイマ、いいのよ。私がいくから」
ユイマが、階下に葡萄酒を取りに行こうとするのを制し、サティーは部屋を出ていった。
「アリウス様、サティーの様子、少し変ではございませんか」
「変と申すと?」
「何か悩み事が、あるような気がするのですが?」
アリウスの頭に、ふと、ある光景がよぎった。薄暗い穀物倉庫の片隅であった。
サティーが、数人の男にかしずかれている。彼女は男達を諫めようと必死に説得をしている。アッシリア皇帝の血を受け継ぐ、最後の皇女!
その時、台所の方で「ガチャン!」と陶器の割れる大きな音がした。
「ユイマ!」
「はい!」
ユイマが部屋から駆け出ていった。
アリウスの胸は、早鐘のように鳴った。今まで思っていたことと、繋がりが在るに違いない、との不安に襲われた。
しばらくして、サティーがユイマと一緒に食卓に戻ってきた。おそらく割れ物を片づけてきたのであろう。努めて明るく振る舞おうとしているように見えるが、サティーの顔色は優れず、眉間に浅く縦皺が寄っている。
アリウスも努めて素知らぬ風を装う。
「ごめんなさい、葡萄酒を一壺駄目にしてしまいました」
「気にすることはない、食事を続けよう」
あとの食事は、今ひとつ、盛り上がらなかった。
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