ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






   第四章 救済の劫火<22>

   
 アリウスはプラチナブロンドの長い髪をなびかせ天空を飛んでいる。身も心も羽毛のように軽やかだ。王宮の上空を過ぎようとしている。毎日、執務を行っていた場所も上から見るのは初めてだ。エクバタナの町並みが遠ざかる。速度はぐんぐん上がっていく、頬に風が打ちつける。ドレーパリ−が、引きちぎれるようにはためく。
 アリウスの白い顔が、微笑んでいる。すべての苦痛、恐怖から解放されたとでも言うのだろうか。微笑み、実に楽のしそうだ。
 雪を抱いた、エルブルズ山脈の高峰の彼方にカスピ海が拡がっている。どうやら西方に飛んでいるようだ。荒涼たる砂漠が見えてきた。生命の営みを強く拒絶するかのごとき荒涼たる赤茶けた大地が連なっている。疎らに草が眼に入り始めた、眺望は目まぐるしく移りかわる。ステップの大草原になっていった。
 アリウスの網膜に、紫色をおびた蒼い地中海が映ってきた。
「あッ、ミレトスだ!」
 アリウスは思わず声をあげた。ポリスの城壁に見覚えがある。マンドロス邸の広い敷地が見えた気がした。
 アリウスの育った果樹園も見える。オリーブ畑を過ぎると、そこから、方向を変え、北に飛行を続けた。しばらく飛び続けると、大地全体が緑に覆われてきた、ゲルマニアだ。爽やかな緑の風がアリウスの心に染みわたる。
 さらに北に飛んでいく。氷雨が刺すように肌に突き刺さる。白い大地の所々で、針葉樹が大気に突き立つごとく、群生している。
「故郷だ! 魂の帰るところだ!」
 あれこそが、スカンジナビアの大地だと、アリウスは確信した。
 高度が急激に下がる。白い地面がグングン近づく。
 アリウスは、白い大地に降り立った。風が吹きすさび、寒い。しばらく立ちつくしていた彼は、耐えられなくなってうずくまった。膝をかき抱き、縮こまるアリウスの耳に雪を踏みしめる足音が響いた。顔を持ち上げると、四〜五人の人々が毛皮にくるまって、近づいてくるのが見える。
 アリウスと同じ、プラチナブロンドに、薄水色の瞳を持った男女だ。彼らは、風雪からアリウスを守るように取り囲んだ。妙齢の女性がうずくまるアリウスの正面にひざまずいた。彼女は毛皮をアリウスの肩に着せ掛け、皮のブーツを凍える足に履かせてくれた。
 彼らの指さす方向の、暗い森の中に建物が見えた。そこへ連れていってくれるらしい。彼らは両側からアリウスの腰を抱いて歩き始めた。家の近くに来たとき、二抱えもあるような、大きな松が生えていた。アリウスは、松の根本に跪いた。人々は黙ってアリウスのしたいようにさせてくれる。


 アリウスの肉柱は何度、精を放ったことだろう。意識は朦朧としているが、感覚は逆に鋭敏になっていく。身体が熱を持っているようだ。額にうっすら汗が浮かんでいるが分かる。快感が間隔を置き、波のように引いては打ち寄せる。
 ラオメドンの人間の手とも思えぬ、柔らかい手のひらが、またもや身体をなぞる。ドロリとした液体が塗りたくられているようだ。媚薬の原液か? 脳内の一部が破裂した。
 意識を亡失する寸前のアリウスだが、身体だけは激しく反応する。四肢を縛られ動くことが出来ない。手首、足首の革帯に縛られた部分に鋭い痛みが襲う。血が滲み出ている感覚がする。
 アリウスの口は、きつく塞がれ悲鳴もあげることが出来ない。 
 ラオメドンが、青白く光を放つ鋭利な短剣を持ち出した。眼をふさがれたアリウスは気づかない。ラオメドンが執拗に舌で嘗めた短剣の切っ先をアリウスの喉に持って行く。
 チクリと鋭い感覚がアリウスの脳に走った。アリウスの白い喉から血が薄く滲んできた。
 ラオメドンはそのまま、短剣の切っ先を身体に沿っておろしていく。ドレーパリーの端を掴むと、切り裂きはじめた。薄いドレーパリーに覆われた、アリウスの肌も薄く傷つき血が滲んできた。

 ラオメドンが、椅子に腰掛け葡萄酒の壺を取ると、直接口を当て飲み下した。日頃は葡萄酒を飲まないラオメドンである。四肢を拘束されたアリウスの身体はヒクヒク蠢いている。
 喉から、正中線にそい短刀で股間まで薄く傷つけられたアリウスの身体から血が滲み出している。白いドレーパリーも切り裂かれ徐々に紅く染まっていく。
 ラオメドンが立ち上がり、部屋の隅に立てかけてあった、杭を取り出し、大きく拡げられたアリウスの股間のあいだに立った。妖しく黒い光沢を放つ杭は、ラオメドンの背よりも高く、太さは手首ほどもある。
 彼が、尖った杭の先端をアリウスの臀部の穿ちにあて、執拗に嬲り始めた。そのたびに、アリウスの青白い身体は反応をする。
ラオメドンが膝を折り、アリウスに話しかけるように言葉を呟く。黒く塗られた両手の爪を額にあて一心に祈りを捧げている。 
 ラオメドンが杭を持ち立ちあがった。大きく息を吐き出し、顔を朱に染めると、渾身の力を込め、尖った杭をアリウスの臀部の穿ちに突き刺した!
 その瞬間、アリウスの身体が大きく跳ねた。上半身はのけぞり、臀部が浮き上がった。
 穿ちから鮮血が噴き出て、辺りに飛び散る。
 なんと! その時、朱をおびたアリウスの肉柱は、またもや白濁した精を噴き上げた!
狂気に支配されたかのごとき、血走った眼のラオメドンが、全体重を預けて、さらにアリウスの身体に、杭を穿ち続ける。


 スカンジナビアの森に白い雪が舞い降りてきた。アリウスを囲む人々は黙したまま、誰も声をかけない。アリウスは立ち上がり、松の大木にすがりつくと、頬を寄せた。
 涙があふれ出て頬を濡らす。木肌を撫でているアリウスの手に、粘るものが触れた。
 松ヤニだった。これが数万年の歳月を経て、琥珀になるのだろう。 
暗い森の中、時々稲妻の閃光がはしる。涙が頬をつたわり続け止まらない。アリウスは松の大木に耳をつけた。ゴォーという音が微かに聞こえる。松が、大地より水を吸い上げる音だ。ささくれた木肌に頬が傷つき血が滲むが、気にする風でもなく松が吸い上げる水の音を聞き続けている。
 先ほど毛皮を着せ掛けてくれた女性が、アリウスの肩をさする。彼女の薄水色の双眸は彼からある記憶を呼び覚ました。
「あっ、あなたは、クレオメストラ・・・・・母では・・・・・」
 アリウスの喉から言葉が小さくもれた。
 女性は微笑んだまま何も言葉を発しない。
 森林を突き抜けた遙かな上空には、強風が悲鳴を上げるかのごとくに、吹きすさんでいる。松の葉音が激しくなってきた。
「・・・・・帰還は終わった・・・・・今、最後の一人が・・・・・」
 声ともつかぬ松の呟きが、頭上を流れていくのをアリウスの耳はとらえた
 その時、天空にひときわ鋭く稲妻が走った。轟音と供に、森を切り裂いた雷光が、松に寄り添うアリウスの頭頂に突き刺さった。
 雷光は、アリウスの身体の正中線を真っ直ぐに貫き、大地を突き抜けた。アリウスの両眼と口は大きく見開かれ、硬直した身体は松を離れると、棒のように突っ立った。


 メラメラと燃えさかる炎の中、拘束台の上には、引き延ばされた白い身体が、四肢を縛られ大の字に投げ出されていた。
 炎のなか、アリウス身体は、青白く透明に浮き上がり、妖艶な美しさを放っている。血がバラの花弁をばらまいたごとくに、身体中に飛散していた。
 黒い杭は、臀部の穿ちから打ち込まれ、尖った切っ先は、喉を突き破っている。白蝋の身体は串刺しになっており、首を切断され頭部がない。
 拘束台の側には、白い綿布が敷かれ切断されたアリウスの頭部が置かれていた。
 薄水色の双眸はかすかに開き、正面で胡座して祈りを捧げているラオメドンを、穏やかに見つめているようだ。 
 プラチナブロンドの頭髪は、丁寧に櫛で掻き上げられたらしく、後頭部へ乱れもなく流されていた。
 祈りを捧げるラオメドンには、漆喰の悪魔と称された面影は何処にも見られず、安らかな顔つきをしている
 彫像のように座り込み動かなかったラオメドンが、膝を立て上半身を起こした。両手を伸ばしアリウスの頭部を挟み持ち上げた。かなり重量があるのか、両手が震えている。
 ラオメドンは、血の滴るアリウスの頭部をかき抱いた。

 部屋には、大麻や、薬草がうずたかく積み上げら、炎は天井に届いている。先ほどラオメドンが火を放ったのだ。
 ラオメドンは、アリウスの頭部をかき抱いたまま、炎が迫るのも構わず、身じろぎもしない。
首から下のない頭部は、長いプラチナブロンドの髪が床にばらけている。薄水色の双眸はかすかに開き、口元は微笑んでいる。
 ラオメドンの顔は、穏やかである。褐色の瞳は優しく、轟音をたて迫り来る火炎を気にする様子もない。
 無惨で異様な光景にもかかわらず。決して人々の手に触れることも、立ち入ることも許されない、静謐で神聖な空間が現出していた。
 燃えさかる炎が、ラオメドンの、衣服を焦がしはじめたが、彼は身じろぎもしない。愛しそうにアリウスの頭部に頬ずりをする。アリウスの頭部の表情は、幸せそうな安らぎを醸し出している。
 劫火はアリウスの骸が横たわる拘束台を嘗め始めた。白い身体が紅く染まっていく。
 火炎は勢いをまし、部屋中が紅蓮の炎に包まれた、人体に移った炎は、そこだけ色を変え、橙色に燃え上がる。
 感覚を麻痺する薬でも飲んでいるのであろう。アリウスの頭部を抱えたラオメドンの影は微動だにしない。 

 人体から舞い上がる橙色の炎が、部屋に満ちてきた。悶えるように蠢きだした身体のうねりとともに、二つの魂魄は天井を突き抜ける。
 建物の天井を突き抜け、漆喰の闇の彼方に細い煙が立ちのぼる。白と黒との煙が、絡まりながら天空に消えていった。


 その日の夜は、エクバタナの町の何処からでも、市場の外れにあるマゴイの寺院の、燃えさかる炎が見られた。闇の中、火勢は天をも焦がすばかりの勢いであった。
 翌日、まだ燻り続ける焼け跡に四人が茫然と立っていた。オリオン、ユイマ、案内の少年、そして、サティーの姿があった。彼らはもの言わず、黙って何時までも佇んでいた。 詳しいことは分からずとも、四人は事態を掌握しているはずだ。それぞれの想いを胸にアリウスを偲んでいるのだろうか。

 時代は、急展開を見せようとしている。
「朱の獅子」の時代も、「エクバタナの春」も確かに終わったのだ。キュロス、オリオン、サティー、ネストル・・・・・そして、ユイマ、新しい時代を背負う若者たちが、いままさに、飛び立とうとしている。
 いや、オリエント世界を覆う、巨大な渦に巻き込まれようとしている、と言った方が適切かもしれない。



                         第一部 完

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