空手とニンジョウ
昨今、戦争がどうとか銀行がどうとか世の中いろいろ大変らしい。
しかしそんなこたあ、どうでもよくなっちゃっているくらい、
私自身がシッチャカメッチャカになっており、
宣言したとおり何かしらまったりとしてコクのある年にはなっている。
キレはない。
空手も杖も少し遠ざかっていたところ、
ハタと気が付けば、師匠はお星様どころか妄想が惑星の最後みたい膨れ上がっており、
次元を越えた電波が乱れ飛んでいる始末。
当然、小説の話以外は口もきかない。
たびたび原稿の要求はあったが、
目を合わせてはいけない人だと認識し、
それどころじゃないんだってば、と放っておいた。
しかし、ヒロコ様にいたって、
「そろそろ、、かしら?」
などと、いわれると、
マイナス30度で心臓をわしづかみにされたような激痛が走る。
すいません、私がが悪うございました、あいたたた。
義理と人情秤に掛ければ義理が重い世の中でございます。
師匠に義理立てして書く訳じゃあございませんが、
ぜひとも書かせていただきマスです。
ということで、浮き世の義理にまかせて書くのだけれども、
義理と人情ほど面倒くさいものもない。
師匠は義理と人情にさほど興味がないらしい。
私はそういうものに絡まれやすいので、
ほどほどにしないさいなどと涼しい顔でのたまっている。
かといって、義理というのは面倒なものながらないとまたいろいろと困るもの。
まして人情というのは人の世にならなくてはならないもので、
下町なんぞは法律よりもこっちのほうが権威が高いんじゃなかろうかと、
何となく考えてしまうようなものでもある。
日本人は特に好きなんでしょうな。
私も「鬼平犯科帖」なんぞ大好きである。
しかし鬼平に人情がないと、日本拷問物語であり、
昔のお役人様はひどかったという歴史考証物語である。
「男はつらいよ」にいたっては、迷惑な身内を持った家族の辛さと更生を目指す物語であり、見てるこっちが弱ってしまう。
冒頭にも書いたけれど、昨今の殺伐とした世の中で、
分かり切っているような人情話がうけるのもこの世の道理。
水戸黄門は、例え世界一周するほど日本全国津々浦々、
見ただけでみんな正体が分かってしまうほど、ほっつき歩いて、
もはや印籠が意味を為さなくなったとしても、
世の人々から解放してはもらえそうにない。
なんて馬鹿な話はこれくらい。
ところで、このような心温まる人情は「ニンジョウ」と読む。
しかし、「ニンジョウ」と読むのは必ずしも人情のみではない。
私がそれを知ったのは中学生のころである。
それまで私は不思議な言葉だなと思っていた。
「沙汰」がつくニンジョウである。
「ニンジョウ沙汰」
私はてっきり「人情沙汰」だと思っていた。
感情のもつれ程度の問題であり、
軽い問題であるという、
どちらかというとソフトなイメージを抱いていた。
(痴情のもつれも道義だと認識していた)
松の廊下で浅野の殿様がニンジョウに及んだというのも、
きっと人情から許せなくなったのかと、
そんなに吉良殿が嫌いだったのかと、
そこまで感情的なるのは大人じゃないんじゃないかと、
無理矢理解釈して納得していた。
さまざまな会話において、
どーもこーも微妙に話が合わないことが続いた後、
私がこの曲解中の曲解に気が付いたのは、
おそらくなにかしらの新聞記事がきっかけだったのであろう。
「刃傷沙汰」
ああ、なるほど!
こりゃすごい。
どうりで、被害者がメッタ刺しだの首が飛んだのと、
ハデだったわけだ。
感情のもつれどころじゃないわけね。
それまで凶悪な登場人物や凄惨極まる結末の割に、なぜそんな言われ方をするのかと、
松の廊下で刀を抜いてはいけないのどうのこうのと、
浅野の殿様が及んだものがなんであったのか
ようやく理解することができた。
さて、こちらの物騒なニンジョウは
武道における中心的テーマである。
以前に書いたとおり、ほとんどの日本の武道は、
相手が日本刀であることを想定している。
少なくとも、相手がなにかしら刃の付いた凶器を持っていることを想定している。
つまり、ニンジョウに及ぶことが前提条件。
武道の術理は刃物を持っている敵をどう倒すか、どう防ぐか、
そこにつきると言っても過言ではあるまい。
空手も日本刀を相手にする考え方があると書いた。
しかし、である。
現実にそんなものを相手に出来るだろうか?
ふと、そんな疑念を抱かせる話を思い出したのである。
空手と杖の稽古でお世話になっているタイスケ氏という人がいる。
一貫堂きっての理論派である。
この人の理論のおかげで、私は初めて日本刀で巻き藁を切ることが出来たので、
ただの理論家ではないなと、敬服している次第である。
この人が、ある時杖の先生数人に、
相手が日本刀を持っていたら杖をどう使うかと質問したことがあるらしい。
杖道というのは、もろに相手が日本刀であることを想定しているのだから、
いつも習っているとおりに構えて戦えばよさそうなものである。
右手で杖の真ん中あたりを持ち、
左手で杖尻を持って、
相手の身体の中心線合わせて突き出すようにする。
一番自然な構え方で「本手の構え」という。
しかし、奇しくも二人の先生の意見が一致した。
両手で刀を持つように持って、コメカミめがけて振り下ろすというのである。
通常の杖の使い方では、本手の構えから刀をたたき落としたり、
刀を持っている相手の手首を杖の先で極めたりする。
この構えの場合、間合いには入っていないとしても、
案外相手の刀と自分の身体の距離は近い。
そして、当然ながら練習の相手は相手は木刀である。
ところが、上級者となって日本刀を相手にするとわかるらしいのだが、
刀というのはとても見えにくいのだそうだ。
確かに、刀の幅というのは木刀ほどはなく、薄いものであるから、
いくら光っていても見えやすいものとはいえないだろう。
仮に見えたとしても、何処にあたろうが刃の部分は切れる。
ものすっごくよく切れる。
日本刀が触れば切れるなどというが、
これは誇張ではない。
小学生のころ、友人が持ってきた小刀、
恐らくは懐刀であったろう、その刃を確かめようとして、
大変綺麗に親指の腹の皮がピーリングされた思い出がある。
しかも全く痛みナシで。
それこそ、その様子を見ていた女の子がパニック状態に陥いったほどである。
ちょっとあたったではすまされないものなのだ。
そんなものの近くに寄ることは危険きわまりないのである。
となると、日本刀に対してもっとも杖が有効であるのはその長さなのだという。
したがって、長く使えるよう、そういった構え方になるというのだ。
うーん、なるほど。
一般に習得できる技術で、本物を相手にすることになったら、
それが一番合理的だろうなとは思う。
それこそ、杖の先生たちでさえそう思うらしい。
杖でさえそうだとすると、
空手はかなり苦しくなるんじゃないかなー。
何かの拍子に懐にはいれればなんとかなるだろうが、
一般のレベルでは、まず不可能のように思える。
この前書いた首里手の技術も、
そう簡単に体得できるような代物でもなければ、
万が一、体得できたとしても、危険が伴うこと間違いない。
リゾート空手家としては、
結論としてそんなものの相手をしてはいけないということで終わりである。
仮に相手にしなくてはいけなくなったら、
遺書でも書いたほうが早いかもしれない。
真剣白刃取りなども、大変かっこよくはあるが、
手を合わせるのが間に合わなかった場合、
まるで、相手を拝みながら真二つに切られるわけであるから、
想像するだに、なにやらもの悲しい気分になるので、
これもいただけない。
早すぎれば、拝んでいるのに切られるのであるから、
涙のとどめようがない。
しかし、やられっぱなしでは、なんとも面白くない。
ということで次回は、刃物相手にどうするかという、
大変な課題についてシュミレーションしようかと思う。
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