海  峡
<6>



 
 夕方から降りだした雨はいくぶん雨脚を弱め、夜八時を回ると、小雨がぱらつく程度になった。秋も次第に深まり寒くなっては来たが、コートを羽織るほどでもない。
 傘を差し、歓楽街を歩くのは何年ぶりだろう。雨の日はこの街に出ないか、車で乗り付けるのが今までの習慣だった。
 靴が音をたてて、濡れた歩道を踏みしめる。私の心は、沈めてきた感情に火がついたようだ。消し炭の火が燃えだし、木炭に移った熱に身もだえしている。
 クラブ小夜までは、もう少しだ。江里子の出勤時間はもう少し後のはずである。薄いネオンの明かりを照り返し、細い雨がきらきら微少に輝く。
 私の網膜は、雨の歓楽街の中に江里子の白い体を見ている。しなやかに蠢く裸体は、私を何処かへ誘い続けている。行くところまで行くしかあるまい。滅びという至上の快楽に、溶け込んでいってしまうのは、そんなに先ではない予感がする。
 過去の華やかさを慕う、この歓楽街の歩道は水はけがよくない。靴を濡らしながら歩く私の胸は、高まっていく期待に鼓動を激しくする。 

「いらっしゃいませ」
 にこやかに微笑みながら寄ってきた薫ママが、私の濡れたスーツをタオルで押さえる。雨にもかかわらず、客の入りは良いようだ。
「江里子ちゃんは、もう少ししたら来ますよ」
 時計をみると、八時半をまわっていた。
「失礼します」
 そう言って、若い子が挨拶をした。眼が大きくはち切れそうな若い身体を、クリーム色のスーツが覆っている。
「ニューフェースの、真弓ちゃんですよ」
「真弓です。よろしくお願いします」
 二十代初めだろうか、感じの良い子だ。 
「直江です」
「直江さんて言うんだけれど、この店では専務さんで通っているの。大正石油の専務さんよ」
「あの、大正石油ですか」
 横に座った真弓の足が、短いスカートから綺麗に延びている。彼女は十分に自分の魅力を自覚している。近い内に売れっ子になることは間違いなかろう。
「ママ、なかなか良い子だね」
「あら、そんなことを言って。江里子ちゃんに言い付けますよ」
 楽しく談笑は続いていくが、私の頭の片隅には常に江里子の肢体が浮かんでいる。

「ママ、大変だ!」
 ボーイが血相を変えて、駆け込んだ来た。握りしめた両手が震えている。
「なんだい! お客さんの前だよ」
 薫ママは、事態がただならぬことを感じながらも、若いボーイを叱りつけた。私は悪い予感に襲われた。
「え、江里子さんが!」
「江里子がどうした」
 ボーイを睨みつけると、私は既に立ちあがっていた。
「刺されました!」
「どこだ! 案内しろ」
 後は何も考えられなかった。エレベーターのボタンを押し続けた。もどかしく、階段を走ろうかとも思った。とにかく前に一歩でも進むことだ、他には何も考えられない。
 雨の中を掛けた。
「急げ!」
 ボーイを急き立てるように駆ける。弱い雨が走ると顔を叩く。見えた! ビルの陰で男が、ナイフを突き出した姿勢のまま凍りついている。五、六人が遠巻きに囲んでいる中に、胸を押さえて、仰向けに女が倒れていた。

「江里子!」
私は無我夢中で駆け寄ると、彼女を抱き上げた。長い髪が濡れて、額に張り付いている。薄手のコートの下の、黒いドレスもずぶ濡れて身体にまとわりついていた。白い顔が苦しげに顰めている。
「江里子!」
 私の呼びかけに細い眼がうっすら開いた。
「な、直江さん・・・・・」
「江里子、しっかりしろ」
 抱き上げた身体は細く、あまり体重を感じない。彼女が押さえた左胸からは、血が流れて、歩道の水に解けていく。
「バカよね私・・・・・直江さんと知りあったんだからそれで良かったんだけど・・・・・」
 微かに彼女の唇が動いている。私はその口元に耳を持っていった。
「しっかりしろ!」
 私は、彼女の胸を押さえている手に、自分の手を重ねた。流れ出る血が暖かい。私の顎から流れ落ちる水滴が、細い彼女の首筋を打つ。
「・・・・・どうしても一度海峡を渡ってみたくって・・・・・」

「この女、オヤジを売りやがったんだ! オヤジは北九州に殺られちまったんだよ」
 見なくても分かる。涙ながらに声を張り上げているのは常田だ。遠巻きにしている人間もずいぶん増えてきた気がする。その中から「あっ、大正石油の専務だ」という、抑えた声も聞こえてきた。
 雨が私の頭髪を濡らし、江里子の首筋に伝わる。
「・・・・・直江さん、私を抱いたままでいて・・・・・お爺ちゃんが、し、死ぬときわたしを見つめた眼。あなたと知り合って、すべてが解った」
「何をしてるんだ! 早く救急車を呼べ!」
「いいの・・・・・お願いだから聞いて、お爺ちゃんは・・・・・わたしの、お父さんだったの・・・・・」
「な、なんだと・・・・・」
「嬉しかった。直江さんに会えたんだもの・・・・・わたしと同じ匂いのする・・・・・最後に・・・・・」
 彼女は唇を微かに開き口吻を願っている。私はゆっくり、彼女の薄い唇に覆い被さった。唇の中に下を差し込んだ。次第に江里子の吸う力が弱くなる。
 遠くから聞こえる、救急車のサイレンの音が近づいてきた。


「おい、本当か!」
「ああ決めた。九州に進出する」
 大正石油本社ビルの五階。専務室から久富に電話を掛けている。
「そうか、よし全面的に協力するぞ。あの土地は権利が入り組んでいるが、すべてまかせろ、北九州の奴らに目にものを見せてやる」
「あそこには、取りあえず、大型のガソリンスタンドを建てる。そして、隣の敷地をタンクローリーのターミナルにする。九州進出の足場だ」
「お前の気持ちは、分かった。いよいよ本格的に動き出すわけか、そうすると社長も受けるわけだな」
「そうなるだろうな」
「えらい変わりようじゃないか。あの女の影響か?」
「そうかもしれん」
「えらい評判になっているぞ。大正石油の専務が、人前で濡れ場を演じたと言ってな」
「雨で確かに濡れていた。まあ、言わせておくさ。ところで、常田はどうなるんだ」
「まあ、事情はあれ堅気に手を出したんだ。塀の中でおとなしくしていても、出てくるまでには7〜8年はかかるだろう」
「その世界じゃどうなんだ?」
「親の敵を取ったはいいが、相手が女じゃな」
「駄目か?」
「ああ、将来的にも吉村の跡を継がせるわけにはいかない」
「分かった。出所後のことは俺が何とかしておこう。その間の家族の面倒ぐらいはお前が見ろ」
「それぐらいはさせてもらおう。しかし、お前が引き取るのか・・・・・いや、お前は何とかしておこうと言ったな」
「そうだ、俺が生きているとは限らないからな」
「バカを言え、これから事業を大きくしようというお前が。それはいいが、常田はヤクザに向いていない」
「俺もそう思う」
「常々言ってるが、お前ほどヤクザに向いた男はいないぞ」
「いや、お前は分かっていない。俺ほどヤクザに向いていない男もいないだろう」

 途中に内線が何本か入ったが無視をした。久富との話しは長く続いた。受話器を置くと椅子に寄りかかり大きく呼吸をした。
 事業欲に燃えて来たわけではないが、伯父に跡を継ぐと言ったら大層喜んだ。従業員の会話も溌剌とし、動きもやけに機敏になってきた。
 私自身、心の想いとは懸け離れた行動を取ってしまう。じっとしていると堪らなくなってしまうのだ。結果的には、伯父を裏切ってしまうことになると思うと胸が痛むが、端緒は付けたのだ、あとは皆が旨くやってくれるだろう。

 私の頭に色々な想いがよぎっていく。良い子でいよう、人から認められたい。その為には決して人に言えずに深く押さえ込んでいた感性。
 漆喰を塗り固め、塗り固めして閉じこめてきた狂おしい情念は、跡形もなく剥がれ落ちた漆喰から、解放されてしまったのだ。もう後には引き返すことは出来ない。
 もうすぐ私も本当に楽になることができる。江里子と同じように。
 壁には、母の日本刺繍が額に入って白い壁に掛けられている。その下のサイドテーブルの上には、江里子の入った骨壺が置かれている。
彼女は彼岸に行ってしまった。一周忌が過ぎたら、千葉の岩井袋の墓地に埋めてやるつもりだ。それまで、私の命があったらばの話しであるが。
 窓の外には海峡が見える。今日は良い天気だ。対岸の風頭山がくっきり眼に映る。
 江里子の渡ることの出来なかった海峡だ。


                                        完了

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