北 に 潜 む
<3>



 
 スーパーの袋を提げた浩之が理髪店の前に立っている。少しうつむき加減なのはいつもの癖だが、気持ちは近頃になく軽い。袋には安物のジーンズが入っている。乏しい持ち金から買ったのだ。彼は頭の中で残金と生活費を計算する。
 理髪店の中には客はいない。中年の親父さんが新聞紙を広げて退屈そうに読んでいる。
彼は思いきって自動ドアと書かれているボタンを押した。ガラス戸が開き、左足から店内に入る。

「お、いらっしゃい!」
 主人は新聞から目を離すとすぐに立ち上がった。
「どうぞ」
 主人の手招きに従い椅子に座ると、浩之は自然に正面の鏡を見つめた。そこには何時もと変わらない彼が映っている。前髪は眼を隠すほど伸びている。
「うーん…この髪、自分で切ったろう…」
 主人は浩之の髪を撫でながら、心持ち首を傾げてそういった。非難する様子ではなく、ごつい体型にも拘わらず穏やかそうに見える。
「は、はい…」
「散髪には何時行ったんだ」
「…二年以上まえ…」
「そうか、で、どんな髪型にする?」
「どんな、髪型って言ったって…」
 浩之には髪型が何かは分からない。このとき理髪店に入ったことを少し後悔した。
「散髪をしなさいと言われたので…」
「それって、もしかして就職か?」
「ハ、ハイ」
「なるほど、就職試験を受けに行くのか」
「いえ、あの、決まったんです」
 主人の眼が見開かれた。そして少し頭を傾げる。
「よかったな…何処に就職が決まったんだい?」
「コンビニです」
「そうか、なら客商売という訳か。まかしとけ! しかし、こんなむさ苦しい格好でよく雇ってくれたよな」
 そう言いながら主人は、襟首に被さった髪を掻き上げる。

 髪を切るハサミの音が聞こえる。軽く眼を閉じた浩之は髪を撫でられる心地よさに微かに眠くなる。散髪がこれほど気持ちが良いとは驚きだった。心なしか頭が軽くなる気がする。長い髪が切り落とされるたびにスーッと空気が肌に触る。
 主人は最初は何かと話しかけていたが、浩之の気持ちを察したのか言葉少なに手を動かしている。
 洗髪が終わり、仰向けに寝かされると顔を熱いタオルが顔に乗せられた。タオルが外されると、泡立てた石鹸が顔にぬられる。皮膚をカミソリが撫でていく。
「兄ちゃん、どこのコンビニなんだ?」
 突然声を掛けられた。首筋をカミソリが這うとき一瞬ひやりと背筋に冷たいものが走った。瞬間、頸動脈を斬られてしまうという思いに囚われる。しかし、それはたわいもない彼の妄想で、主人は手際よく髭を剃っていく。
 浩之が答えるまで時間が掛かる。下手に口を動かせばカミソリで切られる気がする。主人は、別に答えを急ぐ風でもない。

「えぇ、向こうの…郵便局の先のコンビニです」
「おお、なるほど。あそこなら雇ってくるるかもな」
「知ってるんですか?」 
「ああ、店長のシンペイを知ってるぞ。あいつは実に変わった奴だ…でも悪い奴じゃない。もうひとり、カオルってのがいるんだ」
「し、知ってます。カオルさんにも会いました。彼女が髪を切れって…」
「美人だろ?」
「ええ、とっても…」
「だよな、でも気を付けろよ、綺麗なバラには棘があるってな」
 主人が意味ありげに微笑んだ。
「二人をご存じなんですか?」
「ああ、子供の頃からよく知っている。二人とも札幌に出ていたんだが、問題を起こして帰って来やがった」
「問題って?」
「本人達に聞いてみな」
 主人は、これ以上二人について話す気はないらしい。浩之もあえて話しかけることはしなかった。


 目が回りそうな一日だった。普通の人にとっては、何と言うこともない一日かも知れないが、浩之にとっては破天荒の一日と言えた。
 夕食のインスタントラーメンとサバの水煮の缶詰を食べ、部屋で横になった。買ったばかりのジーンズを枕に横になると、壁の「マドンナ」が眼に入る。彼女は、今日は微笑んでいるように見えた。
 思えば不思議な日だった。浩之は二年近くこのように人と話したことは無い。挨拶すら交わした記憶がない。必要最低限の言葉を交わす日々。しかも、その短い言葉を発する人の顔には訝しげな表情が浮かぶのが常だった。しかし、今日あった三人は、何故だか彼を避けるふうでなく、むしろ好意を持たれているように感じた。
 浩之の廻りの空間が不思議な変化を来してきた気がする。何故? どんな意味が?
むろん分かるはずはなく、思い当たるふしもない。
ジーンズの繊維の感触と染料の微かな臭いが鼻腔をくすぐる。首筋が涼しい。理髪店の主人は思いきって若者風の髪にしたようだ。何という髪型だかむろん浩之には分からないが、短い髪がワックスを着けて立っている。

 床屋での光景が断片的に頭をよぎる。
「おい終わったぞ、眼を開けてみてみろ!」
 理髪店の主人はそう言うと、浩之の肩をポンポンと叩いた。目の前の鏡には、見たこともない若者が映っている。ボーとした頭が元に戻るのに少しの時間を要した。
 浩之は眼を見開く。清々しい若者が自分だとなかなか信じられない。額に被さる髪を上げさせ“床屋に行きな”と言ったカオルさんの顔が浮かんでくる。
「就職祝いだ!」
 と言って主人は、ワックスを一つ彼に手渡した。しみじみ見つめる彼に、主人は使いかを教えてくれた。

 彼は心地よい眠りに入っいく。大柄で鼻髭を蓄えたシンペイさんが、満面に笑みを浮かべて何かを話しかけているが、よく分からない。カオルさんが、レジの棚を整理しながら、二人を横目で見つめ笑っている。
 何かが変わろうとしている。それは確実なことだが、浩之が望んだわけではない。かれは、履歴書を持ってコンビニの中に入っただけである。確実に何かが起ころうとしているのだが、彼の意志でないことは確かだ。廻りの動きが彼を巻き込んでいるように見える。

 浩之は心地よい眠りに陥っていった。今日はパソコンの電源も入れていない。蛍光灯はつきっぱなしだ。涎が少しジーンズに垂れている。アラジンの石油ストーブの火は赤い炎を揺らしている。
 壁の「マドンナ」は何もなかったように軽く眼を閉じ、何とも表現出来ない笑みで浩之を見下ろしている。

次ページへ小説の目次へトップページへ