北 に 潜 む
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 「カオルさん、昨日はどうもありがとうございました」
 翌日であった。コンビニに行くなり着替えもせず、真っ先に浩之はカオルに礼をいった。世話になった人にきちんとお礼を言う。最近は、これが何の拘りもなく彼には出来るようになった。
「ヒロユキ君に知られちゃったね」
 カオルは昨日とは打って変わって、ごく普通の姿をしている。髪を一つに束ね、制服にジーンズの格好だ。化粧も薄い。
「ヤクザとお知り合いなんですか?」
 一見、他人行儀とも見える浩之の言葉使いである。うち解けていないとも言えるが、他人の事情を聞くということは、彼にとってはけっこうな冒険である。
「うん、ちょっとね」
「凄いですね」
「なにが?」
「なにがって…カオルさんは、僕の知らないことがいっぱいありそうで…」
「知りたいの?」
 たたみ掛けてくるのはカオルのいつもの話し方だ。
「知りたいって…」
「ああ、知りたいんだ。じゃ、今度ね」
 カオルさんは笑いながらウインクをする。浩之は知りたくもあるが、何となく恐い感じもする。自分が他人のことを知りたいと思ったことが、あっただろうか?
「ヒロユキ、着替えて仕事に入らないか」
 シンペイさんが声を掛ける。腕時計を覗くと就業時間になっていた。彼が腕時計をするようになったのも最近のことだった。

「シンペイさん、悪いわね。今日は早く上がらせて貰うから」
「OK、頑張んなよ」
 6時を回ったところだった。カオルさんの勤務時間は7時までの筈だから今日は早く帰ることになる。それにしてもこの店の誰もが、店長と呼ばず、シンペイさんと呼ぶ。昨日の出来事をカオルさんはおくびにも出さない。
「シンペイさん、ちょくちょく来てよ!」
「ああ、又行くよ」
「出来たら、ヒロユキくんも連れて来て」
 カオルさんが、ヒロユキに目線を移しながら言った。
「ヒロユキは未成年だぞ」
 シンペイさんもヒロユキを見る。ヒロユキには何のことか分からない。
「だから、シンペイさんに頼んでんじゃないの」
「ああ、わかったよ、お疲れさん」
 カオルさんは、帰っていった。
「し、シンペイさん、何なんですか? 未成年が行けないところって?」
「ああ、飲み屋だよ。カオルさんはバーをやっているんだ、未成年は酒を飲めないだろうが」
 ヒロユキは少しガッカリした。昨日の彼女の扮装からもっと大人の世界かもしれないと想像していたのだった。例えば、聞いたことのある高級な会員制クラブのような…。
「バー…ああ、聞いたことあります。スナックって言うんでしょ」
「ヒロユキ、バーとスナックは違うぞ」
 それから、滔々とシンペイは酒を振るまう店の話しをしだす。クラブ、キャバレー、スタンドバー…と、ヒロユキの興味を誘うように微笑みながら。

「へぇーそんなに色々な店があるんですね…僕、全然知りませんでした」
「当たり前だ、未成年がそんなことを知ってる方がどうかしているぞ」
「シンペイさんは、カオルさんの店によく行くんですか?」
「ああ、週に一度は行くだろうな、落ち着いた良い店で棚には洋酒がずらりと並んでいる。日本酒と焼酎もあるが、大部分は洋酒だ。そして、バーテンの徳さんの作るカクテルは最高だ!」
 シンペイはカオルの店がお気に入りの様だった。珍しく滔々とヒロユキに喋って聞かせる。徳さんとは、六十過ぎの白髪のバーテンダーで、百年一日の如く白いシャツに黒のベスト、蝶ネクタイを身に着けている。上品にかつ寡黙にタンブラーを振る姿は、古のフランス映画のようだとシンペイさんは言う。
「徳さんは、函館の夜の町の主みたいな人だ。カオルさんと徳さんの二人で店をやっている。この二人の関係はちょっと意味ありなんだ」
「どんな関係なんですか?」
「一度、店に連れて行って紹介した後で教えてやるよ」
「えっ、僕を連れて行ってくれるんですか?…でも僕は未成年ですよ」
「かまやしないよ、カオルさんが連れてこいと言っただろうが。保護者が付いていくんだから文句は言わせない」
「保護者って…シンペイさんが僕の保護者なんですか?」
「ああ、文句があるか!」
「い、いえ、も、文句なんて…」
 ヒロユキには保護者という言葉は知っているが実感が湧かない。でも、凄く嬉しいことは事実だった。保証人という言葉とダブってくる。保証人が居ないと言って何件面接で断られたことだろう…。

「バックミュージックがまた素晴らしい。ヒロユキは知らないだろうが、望郷とか第三の男などの映画音楽が流れてくるんだ。しかも、ジュークボックスで。みんな、徳さんの好みで店の雰囲気とマッチしている。むろん、カラオケなんて無粋の物は置いていない」
 ヒロユキにはよく理解できないが、何となく大人の雰囲気が漂っている店だと言うことは分かる。
「どうだ、行ってみたいか?」
「ぜひ、お願いします」
 ヒロユキには珍しくはっきり言いはなった。シンペイさんは笑いながら頷く。

「ところで、シンペイさん、お店の名前はなんて言うんですか?」
「月光と言うんだ。ナット・キングコールの月光値千金という曲から取ったらしい」
「…月光ですか…」
「おい、ヒロユキ、どうした?」 
 一瞬、頭部の血液が下がっていく感じがした。視界が狭くなり肩の力が抜ける。ヒロユキは意識的に頭を振った。
「何でもないです」
「そうか? でも顔が真っ青だぞ!」
 月光という言葉は、ヒロユキを直撃した。何故なんだろう気になって仕方がないが思い出せない。不安にかられてしまう。

街灯の光が瞬いている。もうすぐ寿命が切れる蛍光灯だろうか、弱々しい光だ。午後11時までの仕事を終わり、いつものように二食分の弁当を提げて家路を辿る。
 月が出ている。今夜は満月のようだ。街灯の光が届かない物影もうっすら明るい。そうだ月光なんだ!
 丸石の埋め込まれた壁を無意識に撫でていく。どうやら浩之の習慣的な行動になって居るように思われる。指が引っかかった。丸石が取れてモルタルが穿かれた場所だった。
 ここに埋まっていた石は、今は海の底にある。その暗い海面を月の光が照らす。そう思った時に、浩之は突然閃いた。
 月光、そうだ確か月光だった! 
 忽然と記憶の底から浮かんできたのは、ムンクの絵だった。
 だいぶ前の事だが、昨日の出来事のように、ありありと蘇る。彼が、思いあぐねたすえ決心して、て図書館のムンク画集から「マドンナ」を切り取ったときに、違うページに乗っていた「月光」という絵があったのだ。

 貞淑な妻と淫蕩な女の二面性を持つ婦人が家の前に立っている。暗い背面の家の壁には窓だけが、そして垣根が月に光に照らされている。正面からは月の光が婦人の顔面だけを照らす。身体は闇に包まれている。カンバスの半分を占める影の部分は、暗い闇に閉ざされている。
 月光に照らされた婦人の白い顔が無表情に闇に浮かんでいる。彼女は誘うような視線を投げかけている。あの絵は、ムンクの初めての女性がモデルだと浩之は確信を持った。

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