今日は土曜日、日暮れ前で時間も早く、学者は、吉田酒店のカウンターに肘を付き、一人でビールを飲んでいる。
ハツエから店番をたのまれ、所在なげに、テレビに視線を向けていたが、頭は別のことを考えていた。
『絵里子さん、元気にしてるかな・・・・・もうすぐ七十歳か・・・・・』
学者こと、伏見洋一は、母親「麗子」の死後、孤児院に行き、さらに少年院と辛酸を嘗めながらも、人に頼ることなく今日まで生きてきた。
東京の絵里子からは、再三に渡り上京の誘いが続いたが、首を縦に振ることは決してしなかった。
「学者、ありがとう」
ハツエは帰ってくるなり奥に入ると、なにやらごそごそ動き回っている。 そのうち、ハツエが丸椅子を持ち出してきた。彼女は気合いを入れて、そこに、置いてあったダンボールの口を、一気に開けた。
「ハツエさん、それ、もしかして、らっきょう?」
学者は何げなく声を掛けた。
「そうだよ、二〜三日したら、塩もみのを、喰わしてあげるよ」
ダンボールの中にはビニール袋に覆われて、らっきょうが、ギッシリ詰まっていた。
ハツエは、今朝早く青果市場に行き、らっきょうを20sばかり買い込んできたらしい、毎年のことである。
ハツエの作るらっきょうは、角ウチの常連のあいだでは、旨いという評判になっている。家族の分と常連客の分、大量にらっきょうを漬ける。
料金をとると保健所に叱られるとかで、ただでふるまうのが、今では、ハツエのささやかな楽しみの一つになっているらしい。
ハツエが小さな包丁を握り、下処理をしながら話しかけてきた。
「学者、最近は全草連の話しがあまり出ないね?」
「やりだしたからには、何とか形にしなければ、と思うんだが、どうも、いまいち気が乗らなくてね」
「学者、何とかしようよ! 私もあんまり無茶はしないから・・・・・」
ハツエの視線は、らっきょうの方を向いたままである。
「ハツエさん、本当かい?」
「本当だよ。ところで雪路ばあさんの方は、どうだい?」
「マツに聞かなきゃ、ハッキリしたことは解らないが、最近あまり無茶をしたという噂はないなー・・・・・」
学者は少しホッとした。
「おーい! 帰ったぞー」
勝さんが、配達から帰って来た。
「おー、学者、きてたのか?」
そういうと、カウンターの側を抜け、勝さんは奥の方へ入っていった。しばらくすると、顔を洗ったらしく、タオルで拭きながらやってきた。
「いやー、学者、珍しい人にあったぞ!」
「嬉しそうじゃないか、だれだい?」
「まあ、待て」
そういうと、勝さんは冷蔵庫からビールを取り出し、コップに注ぎだした。
「あたしも、知ってる人かい?」
らっきょうを、剥く手を止めずにハツエはたずねた。
「うまい! 配達の後のビールは最高だ・・・・・。ハツエ、お前も知ってるよ」 「勝さん、もったいぶらず早くいえよ!」
学者は、多少じれったくなってきた。
「だいちゃんだよ!」
「・・・・・だい・・・・・田中のだいちゃんか!」
田中大悟、彼は九州大学文学部哲学科の教授をしている、本物の学者である。専門は東洋哲学であり、中国春秋戦国時代の名家、縦横家という、訳の解らないものを研究しているらしい。本人もまた、訳の解らない男である。
「だいちゃん・・・・・久しぶりね、何年会ってないかしら?」
ハツエも懐かしそうである。
「細い身体で大きなバックを持って、駅からフラフラ歩いて出て来たのを見つけたから、声を掛けて、軽トラの助手席に乗せてやったよ」
「そうか、それでどうした?」
学者は本当に懐かしそうに、勝さんの話しを、身を乗り出して聞いている。 「仕方ないから、実家まで送っていってやったよ。髪も、ずいぶん白くなっていたぞ・・・・・会ったのは五年ぶりかな・・・・・?」
学者が、だいちゃんと知り合いになったのは、勝さんを通じてであり、学者が、まだ二十代こころであった。
「あとで、店に来るようにいっておいたから、来ると思うぞ・・・・・しかし、実際、あのバカが偉い学者になるなぞ、信じられないよ・・・・・」
「勝さん、しかし、だいちゃん頭は良かったぞ。いや、学校の成績がとてつもなく良かったというべきか・・・・・」
学者は弁護するようにいった。
「中、高、大、いつも一番の成績だったと、いうじゃない? しかも、五カ国語が出来るんでしょ?」
ハツエも精一杯弁護する。
「学校の成績はいつも一番さ、五カ国語も喋べれるだろうよ。しかし彼奴はバカだ・・・・・」
勝さんは、譲る気がないらしい。
「まー・・・・・バカではあるな・・・・・」
学者も、多少本音が出てきた。
「たしかに、バカというより・・・・・変というべきかもね・・・・・」
ハツエは、らっきょうを剥きながら微笑んだ。結構、好ましく思っているらしい。
「こんにちわ・・・・・」
のれんを分けて、入って来た男は、噂のだいちゃんであった。細身で白髪、背が高い知識人とくると、イメージとしては立派だが、この先生どうにもさまになっていない。
スーツを着ているのだが、ネクタイが曲がっている。どういう着方をしているのか、左右の袖の長さが、明らかに違って見える。
「おー! だいちゃん、久しぶりだな・・・・・」
「あ! 学者さん、お久しぶりです」
一応、学者が年上である。この場の空気は、二〜三十年前に戻ってしまったらしい。大学教授が、倉庫番に向かって『学者さん』は、多少へんであるが、誰も気にしない。
「まあ、取りあえず一杯!」
学者は、ビール瓶をだいちゃんの前に突きだし、呑むようすすめる。
「だいちゃん、元気だった? 今度は、いつまでこちらにいるの?」
ハツエは、らっきょうを剥く手を休め、だいちゃんを見つめた。どうみても三人の対応は、天下の大学教授に対する態度とはいえない。
「ハツエさん、今回は一週間はこちらです。親に色々相談することが、あるもんですから・・・・・」
「だいちゃん、あんたの両親は、八十を過ぎてるだろ。親に心配を掛けるんじゃないよ! 昔から、相談に乗ってきた三人が、ここにいるんだから・・・・・そういえば、なんだか元気がないな・・・・・」
そういった学者は、大学教授のだいちやんの、保護者のような気持ちになって行くのだった。
「実は・・・・妻が帰って来ないんです・・・・一ヶ月前に実家にいったきり・・・・・」
「えー!」
三人は声をそろえた。
「そ・・・・・それで、奥さんの実家に迎えに、行ったのか?」
勝さん、身を乗り出した。
「三回ほど行きました。だけど、三回とも留守だと言って、家に上げてもらえませんでした」
だいちゃん、五十を過ぎての初婚で、しかも相手は、二廻り年下の凄い美人で押し掛け女房。誰も信じられなかったが、実際に紹介されたときは、みんなが度肝を抜かれたものである。
学者は諭すようにいった。
「だいちゅん、それは逃げられたんだよ・・・・・」
「やはりそうですか? もしかしたら、そうかも知れないとは、思ったんですが・・・・・」
学者はうなった。
「だいちゃん、研究者ならまだ解る。しかし、教授なら教授会もあるだろうに・・・・・そ、そんなことは、まあ良い。何か不始末でもしでかしたのか?」
「別に・・・・・思い当たる事は・・・・・ありません」
「浮気でもしたんじゃないの?」
ハツエが、ごく当たり前の質問をした。
「いや、それはない!」
勝さんが断言をした。
「だいちゃん、ちょっと尋ねるが。交渉の方はどうだった?」
学者は囁くようにいった。
「交渉・・・・・何の交渉です?」
「男女の交渉・・・・・え、えい! セックスのことだよ!」
「そんな・・・・・セックスだなんて・・・・・」
だいちゃんは、うつむいてしまった。ほんのり頬に赤みがさしている。
|