師とその周辺







 ポンタル君について

 
 昭和39年、東京オリンピックが開催された。西暦になおすと1964年だから38年も前の話になる 。
 敗戦から復興し、見事なまでに、オリンピックというセレモニ−をなしとげた日本にたいし世界中の目が注がれた。その中の一つにフランスの国営テレビがあった。「灰燼に帰した国土から出発し、敗戦後20年弱であそこまで成し遂げた日本の根本には偉大なる、文化と伝統がある」と、思ったそうである。(思うのは勝手である、本当かどうか私は責任をもたない)
フランス国営テレビは「日本武道」に注目、映画を取るために来日し、各地を訪ねロケを行った。(ミッシェム・ラムドム監督)後に放映された際、大きな評判をとり、書籍にもなった。
 当時の、著名な武道家が多くでている。手元の本をみてみると、高野弘正師範、清水隆次師範、植芝盛平師範、中山正敏師範、大鵬関、柏戸関・・・・・・・・・・・・。
 ミッシエム監督は下関の塩川先生のところも訪れた。(青い目の武道家、ドン・ドレッカ−師範の紹介だと言うことである)
 塩川先生を気に入った監督は、以後の訪問予定をキャンセルし、下関に居座り、塩川先生の撮影を行った。空手道、沖縄古武道、居合道、杖道、当時の大家を差し置き、一介の若き塩川師範が一番ペ−ジを多く取っている。

 ポンタル君は、南フランスのアレ(ALes)の出身である。(なんとかやっと本題に入ってきた) 父親は内科、母親は眼科の開業医の家に生まれた。
事件はポンタル君が高校卒業前に起こった。(彼が起こしたと言ったほうが正しい) 父親と母親を前に「日本に行って、武道を習いたい」と言いだした。
 以前から日本の武道の本を読んだり、禅の本を読んだり、おかしな青年であった。
 「大学に行く金で、日本へ行かせて欲しい!」切羽つまった真剣な顔で、両親に迫った。以前から変だ変だと思っていた両親は驚きはしたが、
「ついに来たか!」とも思った。
そこまで思いつめているのならと、父親は叔父のミッシェム監督に相談した。
「日本で武道を習うなら塩川師範がよい」と推薦、そして紹介をしてもらった。

 紅顔の美少年ポンタルは、下関彦島の塩川先生の道場の門をたたいた。面くらい、おどおどし、バタバタ駆けずり廻ったのは塩川先生の方である。フランス語しか喋れない人間だ。下関にフランス語が喋れて更に下宿させてくれるところがあるのか? 窮すれば通ず、それがあったのである。(日本に来てポンタルは日本語と英語を覚えた) 

 

 ポンタル君、禅もやりたいという強い希望があった。塩川先生が居合道で知り合った、大森曹玄師家を紹介したところ、老師は「自分はもう年なので」と言って、岡山に有る古刹の曹源寺を紹介した。ポンタルは雲水として入山を果たした。15年後の現在も雲水として修行をしている。法名を「道源」と言う。
 私のかよっていた、法輪禅会の会員の女性の家で7日間の「断食行」も行っている。その家に招待されて伺った私に、家主は
「ポンタル君はこの場所に坐っていましたよ」と懐かしそうに話した。
後家さんではあるが、色気を離れること幾年月の善意の老女である。

 彼の夢は、どこか山あいの閑かな所に草庵をむすび、居合を抜き、空手のロ−ハイの型をし、坐禅をしながら一生を終えることである。

 居合もロ−ハイも実に見事なものである。空手も居合も3段であるが明らかに段位を超えている。細かい技術がどうのこうのと言う問題ではない。醸し出す雰囲気、気迫、オ−ラが本当に素晴らしい。世の並みの6〜7段はマッサオになること、私は請け負う。
 しかし、ポンタル君が心より師として仰ぐ、塩川、岩目地、両先生のうち、岩目地先生は
「彼の技は強く、正確、かつ早い。しかし、畢竟そこまで。一皮むけなければ、本当には使えない。常々、私は彼にそう言っています」
 がんばれ! ポンタル。 
 彼とはもう随分会っていない。現在はもう歳も33才になるはずだ、もう、いい”おじさん”のはずだ。しかし、私にとっては今もポンタル君である。

 時々、登場する私の友人、茶道の師匠のところへ、彼を連れていったことがある。茶道の指南をしてもらって彼も喜んでいた。その友人曰く、
 「彼(ポンタル)は純粋でいい男だとよくわかる。特に澄んだ、あの目がよい。しかし、フランス人でよかった。少なくとも日本では、彼の気持ちを皆、理解してくれると思う。同じことを日本人がしたなら、日本では、親戚、縁者皆、良くて変人、きちがい扱いをされるだろう」

 その彼が、フランスの徴兵検査を受けた。スキンヘッド(坊主頭)に作務衣に雪駄、信玄袋で試験官の前に出た。
 試験官!「あなたは、いいです。今の道を頑張ってください」
これを日本の諺では「さわらぬ神に祟りなし!」と言う。

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