塩川寶祥伝(その二十一)
前項は、この連載とあまり関係のない話に逸れてしまいました。思いつくままに書いているので、今ひとつまとまりが有りません。出来得れば、もう一度、塩川寶祥伝を最初から書き直したいほどですが、書いて来たのですから悔やんでもしかた有りません。開き直って続けるだけです。
塩川先生は、中嶋浅吉先生との関係が疎遠になったが、杖道の普及活動は続けていた。また、全剣連に選手としては出場することは無かったものの、紙本先生との関係もあり、居合の普及活動も続けていた。
そのまま行けば、今頃は全剣連の杖道と、居合道の最高権威になっていたことは間違いない。しかし、なかなかそうは行かない。所詮、先生は組織とは相容れない性格である。
さらに言えば、世間と敵対しているとまでは言わないが、社会の枠になかなか入りづらい個性では有る。
全日本空手道連盟もそうであったように、今度は全日本剣道連盟と喧嘩をしでかしてしまった。もう少し、相手を考えたらどうなんだろう?
切っ掛けは、杖道の昇段審査であった。あくまで切っ掛けである。おそらく、それ以前から全剣連では、塩川寶祥の存在を煙たく思っていたのではないかと私は推察する。
昭和五十九年、山口県剣道連盟で杖道の昇段審査が行われた。むろん、塩川門下からの受審者も多くいたが、特筆すべきは、スエーデンから審査を受けに来た者が三人いたことである。このことが問題を深刻化させることとなった。
今、私の手元に全剣連の昭和五十五年当時の段位審査規定がある。問題となった一部を抜き書きしてみよう。
(第四条……初段より三段までの審査会は、加盟団体会長の任命した六段以上の資格を有する審査員五名をもって構成し、三名以上の同意により合格とする。四・五段審査会は同じく七段以上の資格を有する審査員七名をもって構成し、五名以上の同意により合格とする)
ちなみに、昭和四十三年当時は、前述したごとく、全国に七段以上は、十二人しか居なかった。
戦後、再出発をした剣道連盟もこの頃には組織として落ち着いてきていた。特に、杖道、居合道については、昭和三十一年に新たに発足した。従って指導者すらあまり居らず、その中で塩川先生は請われるままに普及活動に邁進していた。組織発足時の混乱期のヒーローは、その並はずれた行動力ゆえに、整備されてきた組織にとっては、むしろ邪魔になって来た部分があっただろうと、私は想像する。
その年も、全剣連の審査規定をそれほど斟酌することなく、塩川先生主導で昇段審査が行われた。ところが、この年は審査規定に抵触することが問題になった。詳しいことは、止しておくが、事態は乙藤先生にまで飛び火する始末になった。
山口県剣道連盟は、塩川先生に事態収拾の為に再度、昇段審査を行ってはどうかと提案した。しかし、塩川先生は拒否をする。
「谷、山口県だけだったらよいが、スエーデン人はどうするんだ? どんな顔して、もう一度受けに来いと言えるんだ!」
擦った揉んだのあげく、塩川先生が責任を取って全剣連杖道部を退会する替わりに、昇段審査は認められた。結果的には、このことがさらに大きな問題に発展していく。
塩川先生は、本当に杖道の活動を中止する気持ちであったという。ところが、塩川門下の弟子の問題がある。先生は自分一人が止めて、弟子は全剣連にそのまま残ればよいと考えていた。しかし、結果的には塩川門下は、先生と行動を共にした。
乙藤先生との会話の録音がある。
「先生、私ももう六十歳になります。空手も六十になれば現役を引退します。私も今まで手弁当で頑張ってきましたが、もう杖道も引退したいと思います」
「空手、居合のことは、俺は知らない。しかし、神道夢想流は違う。六十歳などは、今から脂ののって来る時期だ。引退することは許さん! 神道夢想流派は、骨までじゃ!」
乙藤先生には珍しく叱咤なされた。八十歳の先生に言われて、さすがの塩川先生も参ったようであった。
いざ、やるとなったら、すぐ行動に起こす塩川先生である。壮大なビジョンを打ち立てることとなった。“全日本杖道連盟”復活の狼煙を揚げたのだ。
この時期、岩目地先生は、乙藤先生に全剣連に残るように強く慰留されている。しかし、塩川先生と行動を共にした。
塩川門下に、金澤興市師範がおられる。金澤先生は、昭和五十五年に全剣連の杖道六段、五十六年に錬士の称号を受けていた。
塩川先生は、金澤先生に全剣連に残るように強く勧めた。金澤先生の奥様は、紙本栄一範士の親族であり、剣道連盟に残れば山口県に於いては即、杖道の第一人者。前途は洋々であるとの配慮からであったらしい。しかし、金澤先生は「教えてもらえる人がいない!」と言って、塩川先生と行動を共にされた。
結局、塩川門下で全剣連に残ったのは、光廣勝人先生だけであった。光廣先生は、塩川先生が下関で空手を教え始めた、ごく初期からの門人であった。後に、転勤で福岡に居を移した関係から、乙藤先生から長く杖道の指導を受けていたのだ。その流れで、乙藤先生のもとに残った。
後に、光廣先生は全剣連から嫌がらせを受けることとなった。塩川門下であるという理由でもって。
光廣先生が、乙藤先生から免許皆伝を受けた時期は早い。全剣連の杖道関係者の中では、米野光太郎師範、神之田常盛師範についで、三番目であった。(乙藤先生の発言による)しかし、何と十年近く、八段の審査に落ち続けたのだ。
「止めた方がいいよ。塩川門下だとレッテルを貼られたんだ! 絶対に八段はむりだよ」
と、助言する者もいたが、光廣先生は審査を受け続けた。その執念は実り、現在、先生は全剣連杖道八段になられている。
その後、執拗に全剣連からの、塩川一門に対する妨害活動は続いてく。何故、これほどまでに大部分の全剣連幹部は、塩川先生を脅威に感じたのであろうか。いや、それは恐怖に近い感情であったようだ。その後の全剣連の全杖連に対する、なりふり構わぬ妨害活動がそれを物語っている。そして、私は、そのような行動に走った全剣連の態度が、それなりに理解出来るのだ。
それは、昭和六十年に国際杖道連盟と、全日本杖道連盟を立ち上げた事に端を発する。意図は明白であった。解散した全日本杖道連盟の復活を期したのだ。
そもそも、かつての全日本杖道連盟の会長頭山泉先生は、昭和三十一年に全剣連の加入に反対だった。その頭山泉先生を訪問して、復活全日本杖道連盟の会長になって頂くように依頼をした。しかし、頭山先生は、設立の主旨には賛同されたものの、会長就任については、自分は老いたと言って固辞された。
そこで、塩川先生は安部晋太郎氏に初代会長になって頂いた。その後、二代目会長は三塚博氏、そして現在は三代目の安部晋三氏となっている。
早逝されなければ、総理大臣就任が確実視されていた政界の実力者、安部晋太郎会長を担ぎ上げ、国体種目に正式加入することを公言したのだ。
これは、全剣連杖道部のアキレス腱であった。剣道連盟に所属する限り杖道は、国体種目になるのは不可能なのだ。すなわち一団体、一種目という規定があるからである。
しかし、全杖連にとっては、それは可能であった。会員千数百人、二十都道府県に組織をもつ団体。全剣連にとっては取るに足りないといえるが、国体種目にある銃剣道よりも遙かに大きいのだ。
さらに、それを支える技術も備えていた。全杖連は塩川寶祥を最高師範に、乙藤市蔵二十六代の統を技術顧問という布陣であった。
乙藤先生より、直接、免許皆伝を授与された者は四名、同じく免許者はその倍近く,七名は居ただろう。塩川先生より免許皆伝を許された者は一名、免許者は三名である。
これでは、全剣連が驚異に感ずるのも無理はない。
平成十七年の今現在、全杖連の国体加入という目論見は殆ど不可能に思える。最大の理由は、全杖連の内部分裂である。一時はかなり実現が可能な所まで行ったと思うが、惜しむらくは、塩川先生が大人しく御輿に乗っていることが出来なかった。その為に、各人の思惑が交差し、内部分裂という事態を招聘したのだとは言えまいか。
この点に関する私の思いは、後に述べるつもりである。塩川寶祥という人間の、生き様に関係して来ざるを得ない。
<22>へ |