師とその周辺







一途な人(その十)





 月一度の禅会での坐禅、自宅で行う線香一本の坐禅を何事もなく続けていた。前にも書いたが、禅会での三時間に及ぶ坐禅のあいだ、数息観で1から10まで集中して数えられるのは多くて三回程度。自宅では35分の間に二回は数えられる。不思議なことに最初からこのペースは変わらない。
朝粥を続けると、変な拘りが生じてくる。タクアン、梅干し、塩昆布に凝り出すのだ。いろいろな物を食べ比べ、「やはり、塩昆布はこれでなくっちゃ!」なぞとほざくのであった。さらに、旨い物は値段が高いのだ。塩昆布などスーパーで販売されている普及品の数倍の価格の物でなければ口にしないありさま。女房に怒鳴られる始末とあいなった。

 一方、林文照老師は、澄んだ品のある声で毎回、碧巌録を提唱なされている。禅会の出席者は、顔ぶれは変わるものの、毎回十五名前後であった。神妙に老師の提唱を聞く人の内、覚苑寺の御住職をはじめ、僧籍に在られる方が三名おられた。その内の一方は、名前を聞けば一般の人でも知っている、某有名大寺の御住職であった。しかし、それら僧侶の方々も、スタジアムジャンパーの私も、老師の前では対等である。

 私は興味のおもむくままに、老師の提唱なさる碧巌録を始め、臨済録、大森曹玄の著作、澤木興道全集、原始仏経典、大乗仏経典などを読み散らかした。
「仏教を理解しようと思ったなら、パーリ語、サンスクリット語までは行かずとも、せめて漢文が読めなければ駄目だ!」
 なぞと、とんでもない勘違いをして、漢文に取り組んだこともあった。ところが、これがとんでもない代物だった。同じ漢文と言いながら、仏教の漢文は特別で一般の物とは一寸違うのである。
 私は思い知らされた。仏教の漢文をマスターするだけで、一生を費やしても絶対に出来ないと。私には現代語に訳された物で十分すぎるのだ。
 ちなみに、普通、経を詠むのは呉音である。そう、あの馴染みのある音読みと言うことになる。しかし、比叡山では漢音で詠み、黄檗宗では隠元禅師の関係から、明音が多い。
 なんだかんだと言いながら、何事も起こらず平穏に時は過ぎていくかに見えたが、そうはいかないのが世の常である。


 文照老師は、“大悟”以来、黙々と悟後の修行を続けておられた。さすがに托鉢は止めておられたが名誉職は一切断られ、円通寺で坐禅三昧の日々を送られていたらしい。
 恩師である澤木興道老師の「カカアは持っても寺は持たぬ。人に執着を離れることを教える寺が、僧侶の執着の砦になっている」という言葉通り。文照老師は「カカアは持ったが大寺には坐るまいこの廃寺だった円通寺をよくすれば良い」という気持ちで日々を送られていた。
 そんな訳ですから、僧侶の役職としては黄檗布教師会会長に就いたぐらいで、他に就くことは無かった。老師の父親が住職をしていた広寿山福聚寺は大山で、小倉十五万石小笠原家の菩提寺であった。さらに十年一期の交替寺だったので、住職の話も何度かあったが、晋山することはなかった。「カカアは持ったが大寺には住職せんぞ!」である。
 さらに、宗会議員、支院長、本山部長、総長も全て断り、師匠であられた鈴木皓慈老大師が就任されていた本山師家の職ですら二度、三度と断っていた。

 そんな時、事件は起こったのだ。たまたま檀信徒十数人を連れて本山参りをした時だった。老師は、旧知の老僧と偶然出会った。老僧は老師を一室に招き入れ「丁度よかった! 君の処に行かねばならないと思っていたんだ!」
 話しはこうであった。現管長の任期がもうすぐ切れる。再出馬の意志はない。放っておいたら選挙になる。いま黄檗宗は二派に分かれて混乱している。このまま選挙に突入すれば、両派入り乱れて大変なことになりそうだ。黄檗三百五十年の歴史に汚点を残すことになりかねない。「君が声明を出せば、他に候補は立たないと僕は見ている。とにかく決心して立候補声明を出してくれ」「そんなに簡単にいきますかね」「行くも行かぬも無い。行かせるのだ!!」
 老僧は危機感一杯に老師を説得した。本山はそれほど揺らいでいたのだろう。帰りの電車の中で老師は思ったそうだ。自分は小寺で結構。カカアは持ったが大寺には坐らんぞ! 
ところが、ここで事態は思わぬ方向に進んでいく。「事件の陰には女あり」の言葉そのままに。
 本山より帰ってしばらくしてのことである。老師は、坊守さん(奥さん)、息子さん、息子の嫁さんとお茶を飲みながら、本山で出会った老僧との遣り取りを、笑い話として話した。その時、坊守さんは姿勢を正し、まなじりを決して文照老師に迫った。
「本山のお師家さんの話しの時もアナタは二度も三度も断られたが、今度は一つ決心して下さい。生涯でただ一度のチャンスと思います」
 文照老師は結構奥さん(坊守さん)には弱いのだ。貧乏寺を必死に支えてきたのは奥さんである。この寺の60%は坊守が建てたのだと、老師も公言していた。
 息子さんも、母親の援護射撃をする。
「いいじゃないの、それは心の持ち方だと思う。老僧の言葉をもっと素直に受けたら。管長選挙に出るのは、親父さんが宗門にご奉公するという心であれば、例え負けても恥じゃないよ」
 みんなして出ろ出ろの大合唱になったと想像する。恐らく老師もまんざらでは無かった筈だ。
「そうか、お前達がそこまで云ってくれるなら、AとBに相談してみよう」ということになった。

 文照老師はA、B、二人の居士に電話を入れた。
「僕の一身上の件で相談があるが、明後日暇が取れるかね」
 二人はやって来た途端に口を開いた。
「全国おもだった所には連絡を入れました。『林老師が立候補する。決意は堅い。絶対辞めることはない。応援頼む』皆さん大喜びでした!」
「早まったことをしてくれたな! そのやるかやらぬかの相談で君たちに来て貰ったのだ!」
「いや、出て下さい。もう連絡済みです。あとには引けません。今まで老師から、一切口止めされて残念な思いをしてきましたので……『一身上の事で相談』とはこのこと以外にありますか?」と反問されてしまったらしい。
「よっしゃ! やるか! やる以上最後まで辞めんぞ!」
 その言葉を聞くと、二人の居士はポロポロ溢れる涙を拳で拭き始めた。
 北九州の田舎にも、黄檗宗本山の動向は伝わっていたのであろう。そうでなければ、このような早い反応が有るはずがない。さらに、老師を引っ張り出すには最適の方法であった。
 
事は、あれよあれよという間に決まっていった。本山の老僧の予想したとおり、文照老師が立候補すると他の候補者と思える人達も禅譲して気持ちよく道を開け、選挙をすることなく老師は黄檗宗第五十九代管長になられた。
 かくして、管長になられた文照老師は祝賀会の謝辞で次のように申されている。

 ……「名誉欲は捨てよう」という私の青年時代の純粋な願はまたも破れました。いや私が破りました。澤木興道老師に対して全く恥ずかしい。ところが飯田利行という駒大の私の恩師から便りがあって「澤木老師が泉下で祝福されているでしょう」と書いてきました。私はここに素直に喜ぶことにしました。皆様有り難うございます。私はここに、ここまで私を押し上げて下さった方々に感謝とお冥福を祈りたい。特に旭町、大正町、三本松はじめ戸畑、門司、八幡の遊郭の方々に、私の托鉢に対し自分の身を売って得たそのお金を、本人達にとっては大金であろうそのお金を、私の袋に入れて下さった方々に、合掌してお金を出された人は勿論のこと、袖を引っぱり。また手を握り、また抱きついてきた人々に……彼女達は私を誘惑しようとしてこのようなことをしたのでしょうか、いや違います。私は今この年になって初めて判りました彼女達は毎晩毎晩、好きでもない男に身をもて遊ばれ、廓から逃げるに逃げられない泥沼の生活の中で、美しいもの純粋なもの、何かにすがりつきたい人間の真実を求めて、私の托鉢姿と仏様のお経の声に対してこのような態度になって出たことが初めて判りました。今はもうその方々は老婆になっているでしょう。また既に亡くなった人々も多いことでしょう。恵まれない薄幸な人生を歩いた方々が大多数でしょう。遊郭に限らず、このような人間の最底辺に居られながら喜捨して私を支え持ち上げられた方々と喜びを分かち合いたい。また菩提を弔いたい。この場で般若心経一巻を、私と共にお唱え頂ければ幸いです……

 そういうしだいで、林文照老師は我々禅会の居士のもとを去っていった。その時のメッセージは以下である。

 本当のところ、私は内心大分迷った。即ち管長職にありながら居士会をこの儘、指導できないか? と。然し管長に出た以上、本山で寝起きをし、雲納と共にそこに常住することが、御開山禅師へお仕えする第一条件だ。私は安住の地を本山甘露堂に決めた。
 居士、大姉よ! 相済みません。お一人、お一人の顔が目に浮かぶ。お許し下さい。然し自分の坐禅は自分が坐る、人によって坐禅するに非ず、自己が坐ることが坐禅なんだから、どうぞ勤めて貰いたい。私の尊敬する澤木興道老大師は、ここを「自分で、自分が、自分する」と申された。またお寺の御住職を中心に禅会を永続して頂きたい。
 こつこつと自己が坐る、それで良いのですから。 さようなら!
 

平成7年11月13日に、黄檗宗第五十九代林文照猊下晋山式が行われた。法雲・円通坐禅会より十名が前日より登檗し、式において任を果たした。
 吾が法輪禅会も喜びに沸き立った。本山で、また円通寺などで晋山祝いの祝典が用意され私にも何回か出席の案内があった。しかし、それらの式典に私は一切参加していない。 老師が管長になられて私は心から嬉しかった。終戦直後、檀家の一軒もなく、信徒の一人もいない円通庵というあばら屋に居を定めると、裸一貫で翌日から托鉢を始めた。そして、托鉢と坐禅一途に打ち込む姿が廻りに影響を与え、此処まで来たのだ。感動しないはずがないのだが……。
 しかし、私には何となく遠くで起こった事件のように感ぜられるのだった。あたかも、テレビのニュースを聞くように。喜びを肌で感じることが出来ないのだ。漠然とであるが私の坐禅は終わるのかも知れないという気がした。

「一途な人」はここで終わりである。林文照老師、そして鈴木皓慈老大師の生き様を、駆け足で述べてきた。一途とは僧侶に限ったことではない。ひたすらある事に立ち向かい、なりふり構わず、一生懸命励む人は一途な人である。五年ぐらいでは、変人と云うことで片付けられてしまうだろう。しかし、十年ぐらい続ければ、その人の廻りの空気が微かに動き出す。そして、二十年、三十年と続ければ、その人を中心に巨大な渦が巻き起こり、廻りの人々を巻き込んでしまう。図らずも社会に大きな影響を与えるまでになってしまうのだ。
 以下は、余談として私の感慨をもう少し述べさせて頂きましょう。


「坐断」という機関誌がある。むしろタブロイド判の新聞と言った方が、想像できるだろう。平均、年に一回程度、発行されている。発行は五禅会、即ち文照老師が指導しておられた円通禅会、法雲禅会、福厳禅会、慶瑞寺禅会、そして私の所属する法輪禅会である。
 この「坐断」に老師の黄檗山万福寺晋山の特集号が出た。カラー印刷で上質な紙製の8ページの立派な物であった。その特集号は、第一面に老師晋山の写真と老師の挨拶文が掲載されている。第二面からは、各禅会、居士達の祝いの言葉と思い出が掲載されていた。ここには、私こと谷照之の文章が、けっこう多くの紙面を取って掲載されている。
「谷さん、お祝いの特集号が出るんです。ぜひ原稿を書いて下さい」
 と覚苑寺の御住職に依頼されたのです。
「えっ! 私がですか?」
「そうです」
「何を書いたら良いんです?」
「谷さんの思うところを好きに書いて下さい」
 今思うと御住職は何かを期待していた筈だ。禅会の中でも一風変わった所のあった私である。なにせ、所ジョージを気取っていたのですから。

 そして、「坐断」は発行された。法輪禅会の部門は、御住職、副住職、そして禅会最長老のSH居士の文章の後に、私の文が掲載されていたのだ。祝いや思い出、感謝の溢れた記事の中で、今見ても私の文章は異彩を放っている。
「何で坐禅?」という題である。
 出だしから、「宗教家は、皆、詐欺師だ!」「釈迦やキリストは、天才的な詐欺師だ!」とやらかしたのだ。そして、セックスに就いて述べだす。性欲で悩み苦しみ、日常生活において迷い、人生の道を踏み外す人が五万と居るこの問題について、あらゆる宗教は正面から取り組んでいない。怠惰ではなかろうか! “わが心に相応する法門ありや、わが身にたへたる修行やある” とやったのだ。
 そして、言い切っている。「家族や周りの人に胡散臭さがられこそすれ、褒められることは決してない。それをあえてやる時、人は真面目にやる。いや真面目にならざるを得ないのだ。その一つが坐禅であり、私の生き様です」
 お祝いの特集号にこの記事が適切であろうか? しかし、掲載されたのだ。編集担当の円通禅会、SS居士は編集後記に述べている。
「せっかく頂いた原稿、写真の一部を勝手ながら紙面の都合で掲載できなかったことを、誌上を借りてお詫び申し上げます」と。
 このSS居士は毎朝五時半に円通寺を訪れ、六時に梵鐘を撞き読経三十分、その後、線香一本の坐禅を八年間一度も欠かさなかったという熱心な方でした。
 私の文章を、一字一句訂正することなく掲載されたSS居士、そして、どんなことを言い出すかを予測しながら、あえて原稿を依頼なされた御住職に脱帽です。
 これも文照老師のなせる技であろう。ありがたいことに、禅会は本当の意味でリベラルでした。

 文照老師は去ってしまわれた。しかし、老師の意志を引き継いだ御住職を始め、皆は頑張って坐禅会を続けている。その年の暮れであっただろうか。覚苑寺の梵鐘堂建立の祝いに文照老師が見えられ坐禅会が行われた。感極まった御住職はポロポロ涙を流されるという感動的な場面もあったが、私はいつしか自宅で坐る習慣を無くし、禅会も時々休むようになっていった。ほどなく私はある事情により、下関から東京に転居した。それと同時に坐禅は辞めてしまった。あれほど頑張っていたのだが、以来一度も坐ったことは無い。
 もう再び私が下関に帰ることは無いだろう。坐ることもたぶん無いと思う。私の中で何かが確実に終わったのだった。


 平成15年7月、ポンタル君が東京に出てきた。塩川先生と一緒に、居合道の演武の為の上京である。およそ十年ぶりの再会だったが、早いものであれから二年以上たってしまった。六本木ヒルズの喫茶店で、三時間は二人で話し込んだ。彼は相変わらず坐禅三昧の生活を送っていた。彼はこの十数年来、毎夜12時には寝て、早朝3時には起床。一日の睡眠時間は三時間で、残りの時間をひたすら、坐禅と武道に打ち込んでいるのだ。
彼も又、一途な人である。
「……と、まあそう言う訳で東京に来て以来、ぜんぜん坐禅はしていないよ」
 私がそう言うと、彼は真剣な顔をして、
「そんなことはありません。谷さんは毎日坐禅をしています」
 と言って慰めてくれた。

 最後に、坐禅とは何であろうか? 私の結論は以下である。
 坐禅とは、ああだこうだ言うんじゃなく、ともかく坐ることであるらしい!


                                     完 了


<参考文献>
禅心の軌跡 林文照著  発行 円通寺
逍遙 林文照著  発行 円通寺
炉辺談話 林文照著  発行 円通寺
坐談 円通禅会編集  発行 五禅会




                                             

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