師とその周辺







岩目地先生からの質問




 「谷さん、『赤肉団上、一無位の真人』とは、どういう意味ですか? 国語的意味は解るのですが、どうも納得できません」
 ある日、突然、岩目地先生から電話が入った。
 岩目地先生は私が禅に通じていると変に誤解している。時々、禅に関する質問を戴くことがある。確かに十年間、坐禅をした経験はあるが、結論としては、全く解らないの一言につきる。「禅とは何か」未だに全然解らない。(林文照老師(猊下)、ゴメンナサイ!)

 「ああ! 臨済録の『無位の真人』ですね。国語的にいうと、赤肉団とは我々の肉体、一無位の真人とは、性別、階級、貴賤の限定を越えた真実の人間ということになるのでしょうか。 少し時間を下さい」
 手紙にて返事を書こうとしたが、時間がなく結局、電話での返事になってしまった。
 当然、禅が解らない私の解答は、禅とはおよそ関係の無かろうところの、自分の勝手な解釈ということになった。
 取りあえず、以下に『臨済録』の『無位の真人』の項を記述してみようと思います。

  上堂云く、赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠  せざらん者は看よ看よ。時に僧あり出でて問う、如何なるか是れ無位の真人。師禅床  を下って把住して云く、道え道え。其の僧擬議す。師托開して云く、無位の真人、是  なんの乾屎?ぞといって、便ち方丈に帰る。

 さて、話しは飛びます。六〜七年前のことになるでしょうか。全国紙の一面に『死』に関するキャンペーンの連載がなされたことがあります。あるとき禅の高僧の話しが述べられていました。(名前は出ていませんでしたが、かなり流布されていた話しであり、名を聞けば、禅に関心のある人は、まず知っている名前です)
記憶している内容はというと、高僧が若い弟子二人と共に、大学病院に精密検査の結果を聞きに訪れた。医者はレントゲンに注視していたが、眼を高僧の方に移した。通常の場合、当時、癌の告知はしないことになっていたが、相手は悟りを開いた禅の高僧である。
 医者は癌の告知をおこなった。
 それを聞いた高僧、みるみる顔が青ざめ震えだした。
取り乱し、椅子から立ち上がる事も出来ず、歩くことも出来なくなった為、付き添いの二人の若い僧に両脇を抱えられ、おいおい嘆きながら病院を後にしたという逸話であった。
 記者氏、曰く。「悟りを開いたとされる、禅の高僧でも死は怖いものである、まして、一般人では・・・・・・・」
 と、皮肉をこめて記述されていた。
 
 はたしてそうだろうか? 私は一無位の真人の姿をそこに見たような気がした。
 私も含め多くの人の場合、顔が青ざめるであろう。思考がパニックを起こしながらも必死に耐え、平常であろうとするのではあるまいか? あるいは、一人になった時、涙を流すであろう。その場で臆面もなく泣き叫ぶことが出来るだろうか? 
 ましてや、悟りを開いたとされる禅の高僧である。地位や名誉をかなぐり捨て、信者を裏切った汚名をきて、歴史にさえ恥を残すかもしれないのである。其の状況であなたは臆面もなく取り乱すことができますか?
 やはり、私は『一無位の真人』の姿をそこに見てしまいます。
泣き叫ぶことが良いと云っている訳では決してありません。泰然として死をうけいれる禅の高僧がほとんどです。自らの死期を悟り、坐亡する禅僧も珍しくはありません。
 要は自分に正直になるという事だと思います。地位、名誉、性別、貴賤、全てを投げだし自分自身になりきる。これが私の『一無位の真人』です。

 賊に襲われ、首を切られたとき、昔の中国の高僧の叫び声は、四里四方に響き渡ったという。 
 孫に死なれた『妙好人』の婆さん、三日三晩泣き通した。あなたほどの方がと言う村人に対して、「おまえら、何もわかっちゃおらん。わしは孫の供養をしておるんじゃ!」 いずれも、『一無位の真人』の現実世界に現れた姿ではあるまいか? その間の消息とは云えまいか?

 何年か前になるが、或る家元が(茶道、華道を想像してください)自分の息子に家元を譲る伝授の儀式の番組があった。新家元は四十代の後半であったと思う。
 一時間近く見ていた、厳かで伝統に乗っ取った儀式。其の世界の凛とした空気は、気高く伝統の重みと格式を、心良く感じた。
 新家元の到達した境地は、まだまだであるが、隠居する八十歳近くの前家元はさすがであった。其の場所に座っているだけで、独特の雰囲気を醸し出していた。なるほど、なるほどと、感心させられた。
 そこで、何故か一瞬、塩川宗師の姿が脳裏を掠めた。前家元はさすがではあるが、塩川宗師の域には達していないと思えた。
 『一無位の真人』の姿はついに伺えなかったのである。
 塩川宗師はどこから見ても田舎の爺さんである。明らかに、我が儘な爺さんといえる。
 が、どうした訳か『一無位の真人』である。自分自身になりきっている。自分が自分の主人公である。

 岩目地先生、貴方もほぼ『一無位の真人』であると云えますよ。謙虚で人に対して常に穏やか。塩川宗師とは真反対ですが、自分が自分の主人公になりきっては、いませんか? 想見させて戴いたことは無く、伝聞ではありますが、東洋史学の碩学、堀先生も『一無位の真人』だと思います。
 あ! 忘れていました。このページのに書いた「スミちゃん」彼女まさしく、天然、生まれながらの『真人』でありました。

 塩川宗師、岩目地先生は武道。堀先生は歴史学。スミちゃんは染色。
 皆、それぞれの分野で社会に貢献してはいますが、では、其の人格の『一無位の真人』の部分のみを取り出した場合、社会的にどのような意味があるんでしょう? 
 あまり在るとは思えないんですね、これが。
ただ、私の場合、彼らの、側にいると気が休まるり、癒されるんです。楽になります。
 さらに言えば、いちばん楽をしているのは、彼ら、本人自身ではなかろうかと邪推してしまいます。

 約二千五百年前、ブッダは弟子に説かれた。
 「生・老・病・死・その他あらゆる苦しみは、決して外から来るのではない。全て自分自身から生まれ出るのである。それと同時に、この苦しみを除き去る力も、外からくるものではなく、自分自身から湧き起こってくるのである」
 そして、遺偈された。
「『自燈明』『法燈明』。自分に燈火をもちなさい。おのれと真理こそが寄る辺だ。他のものに寄る辺はない。常に自分の内身に反省してみるのだ。身体ばかりでなく、感覚、意志についても燈明をかかげ省察に励むこと。宇宙の法(ダルマ)の真理を求めなさい。私の死んだのち、この法を修行する者があるなら、彼こそ本当の私の弟子である」

 原始仏教典におけるブッダが好きである。その後の仏教の展開、在家仏教の流れによる大乗仏教典の成立は理解できるが、それでも、大乗仏教典における釈尊よりも、原始仏教典におけるブッダが好きである。

 おこがましい限りであるが最後に言わせて下さい。
 『ブッダは一無位の真人であった!』

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