永久に未完の組曲
家族旅行の巻(七)



 


 ゴールデンホットアイランドホテルと改名がなされたが、看板はまだ山田旅館ままなので、暫くは山田旅館という名称を使わせてもらう。
前置きが長くなったが、山田旅館の玄関前はざわついていた。ベンツが二台にパトカーが一台横付けにされている。パトカーは静岡県警のものであった。黒服を着た柄の悪い男が十人近くうごめいている。
 中でも、もっとも凶悪そうな三人が刑事のようである。暴力団担当の刑事は、暴力団より遙かに柄が悪いのは、日本の常識にすらなっている。
「ごめんなさいよ」
 柄の悪い団体が、ロビーに姿を現した。フロントの男が怖々見つめている。吉田会の保養所兼集会所の話しを聞いてはいたが、いかに何でも早すぎる。
「警察のもんだ、社長と、東京の刑事を呼んでくれよ」
 中でも最も凶悪そうな男が言った。身長は百八十ぐらいだが、体重は百二十キロはあるだろう。熊田とよく似た体型だ。

「おー、やっとのおでましか」
 フロントマンの御注進にニタリと笑って熊田が返事をした。
「熊田、どういうことだ」
 貴彦が言った。
「いえね、警察もヤクザと同じで縄張りがあるんです。人の縄張りを荒らすんですからこういう事になることは承知してましたよ」
 熊田が腰を上げた。社長、貴彦の二人も熊田の後を追うように部屋を出た。そのとき熊田の脳裏を不安がかすめたが、今さら貴彦に待っていてくれ言えず、エレベーターに乗り込んだ。

「熊田さんよー、久しぶりだな。人の縄張りを荒らして挨拶なしってのは、仁義に欠けるんじゃないのかい」 
 この思考回路はヤクザである。どう考えても警察とは思われない。いや、本来ヤクザと警察は同じ思考回路なのかもしれない。
「おー、貧乏神か。生きてたのか」
「な、なんだと! 喧嘩を売るのか」
 貧乏神と呼ばれた男は、学生柔道において熊田のライバルであった。インターハイ、関東大学選手権で熊田と対戦するも、ついに一度も勝てなかったのだ。名前を安岡と言い、むろんこの男も強くはあるがアウトローであり、素行の点でオリンピック候補にはなれなかった。熊田が「極悪」と入れた柔道着のまねして「死神」といれたのだが、二番煎じで熊田ほどのインパクトは持ち得なかった。安岡の一歩前には、常に熊田という存在が乗り越えられない壁として立ちふさがっており、コンプレックスの固まりのような男であった。
「喧嘩して俺に勝てると思うのか」
 熊田は挑発をする。
「ちょうど良い機会だ。そっちが、その気なら相手になろうじゃないか」
 安岡の眼は真剣だ。
「ほー、強気に出たな」
「俺はな、県警に入って以来、逮捕術、空手、合気、剣道、杖道、はては銃剣術まで稽古したんだ。昔の俺じゃあないぞ」
 熊田はちょっとびっりした。この男すなわち安岡にとっては、そこまで自分という存在が大きな影になって居たのかとおもうと、哀れにすら思った。
「安岡、お前そんなに頑張ったのか。悪かったな、今じゃお前の方が上かもしれない。しかし、刑事というハードな仕事をしていて、よくそんな時間がとれたな」
「酒も女も絶った。お前が、居酒屋でくだを巻いているであろう時も、いびきをかいて寝てる時間にも稽古した。苦しい日々であった・・・・・」
 安岡の眼は心なしか潤んでいた。言葉の上とはいえ熊田が初めて自分に一目おいてくれたと思ったのだろう。

「お取り込み中、失礼しますが、警察の方を初め大勢でこられたご用件は何ですか」
 貴彦の質問はもっともであった。社長の直樹もその点を気にしているのだ。後ろの方には古川金融の社長の顔も見える。
「あんたは、何なんだ」
 安岡は威嚇を込めて、貴彦に一歩近づいた。
「こ、この方は俺の先輩で、北御門さんだ」
 熊田が慌てて紹介した。
「ふーん・・・・・」
 確かに身長は安岡より高いが、弱そうに見える。安岡も熊田と同じく人間の価値を強いか弱いかの一点で判断する性格に見えた。熊田が慌てるのが安岡には奇異に映ったことだろう。
「今日来た用件は、警視庁のマル暴の熊さんに挨拶しようとおもってな。一応これでも、儂は静岡県警ではちょっとは名が知られておる。こちらが、この一帯を島にもっている誠志会の岩崎さんだ」
「岩崎でございます」
 一見紳士風の男が頭をさげた。眼は鋭い光を放っており、年齢は五十過ぎであろう。
「こちらがその傘下の渡辺組の組長さんだ」
「渡辺です」
「こちらの二人がうちの刑事で、後ろに控えているのが、あんたの痛めつけた古川金融の社長だ。それなりにこのあたりは俺が押さえているので、わざわざ警視庁から来てもらうこともないと思って、引き連れて挨拶に来たってわけだ」
 要は安岡が良い格好をしたいのと、ヤクザがマル暴の熊と面を通しておきいたいとの理由らしい。
「ああ、その件は承知だ。おれだって嫌々引っ張り出されて来たんだからな」
「えッ、引っ張り出されて?」
 安岡がそう言ったときだった。
「すみません、ちょっとあけて下さらない」
 凛として艶のある声が聞こえた。黒いロングドレスに身を包んだ麗子だった。上品な吉田夫人と同行している。
「おお、麗子か」
「何事ですの、お兄様。随分下品な方達ですのね」
「おい、何様か知らないが口の利き方ってものがあるだろうが!」
 安岡が憤然とした眼を麗子に向けた。慌てた熊田が二人の間に割って入り安岡をなだめに掛かる。 
 後ろの方で、古川社長が眼を剥いている。『一番怖い・・・・・』と熊田にいわれた女だと、思い当たったのだろう。
 熊田は貴彦の顔色をうかがった。すこし眼が吊り上がりぎみだが、大丈夫だと胸をなで下ろした。

 ちょうどその時、玄関の入り口の方から楽しそうな、高らかとした歌声が聞こえてきた。皆の視線がその方に集まった。見れば七十過ぎの老人が、両手に花で若い娘と腕を組んでいた。三人は、声を合わせて歌っている。
「ランララン、ラララッラ・・・・・高原列車は行くよー・・・・・ラッララー」
 なるほど、共通の歌と言えばこれかと熊田が思った時だった。
「うるせーな」
 渡辺組長が振り向いたときに、運が良いのか悪いのか、手が摩美の胸に触ったのだ。
「キャー! エッチ!」
 とてつもない大声だった。やばいと熊田が思ったときはもう遅かった。百八十五センチの貴彦の身体が吹っ飛ぶと、一気に間合いに入り左中断蹴りが正確に渡辺組長の水月に突き刺さった。引いた足をそのままに腰をひねると、横蹴りが左にいたボディーガードらしき男の脇腹をとらえ、「ボキッ」っと骨の折れる音がした。間髪を入れず、右手の裏拳打ちが右側の男の人中に炸裂し、前歯が吹っ飛び口から血を吐いた。
 ほんの一瞬の出来事だった。安岡は茫然として突っ立ったままだ。親分の危機に駆け寄ろうとした二人の黒服は、貴彦の左右の正拳突きを水月にくらい、前に倒れた。
 本当に効く突きを当てられると、人間の身体はその場に崩れるか、前に倒れるのである。殴られて後ろに吹っ飛ぶのは、打撃の効果としてはまだ弱いものである。
「兄ちゃん!」
 叫ぶと、由美は貴彦の左腕にすがりついた。右腕には摩美もすがりつく。
「うおーッ」
 と雄叫びをあげると、熊田は倒れた渡辺組長を踏みつぶそうと挙げた貴彦の右足にしがみついた。
「お兄様!」
 麗子が貴彦の前に立つと大きく手を広げた。
 熊田は座り込んで、必死に貴彦の右足を捕まえたままである。
 幾たびもの修羅場を潜ってきた、誠志会の会長岩崎にも目の前に繰り広げられた光景が理解不能なのだろう、口を開けたまま一言も発することが出来ない。
 安岡は倒れた五人と、熊田が必死に足に抱きついているのを見つめるばかりだった。
「あなた達! 何をしているのですか。救急車を呼びなさい」
 麗子の口から、落ち着いてはいるがハッキリ通る声で指示が出た。フロントマンが電話に走った。
「武道の心得のある方は居られませんか? いらっしゃらないのですか?」
 安岡を含めた三人の刑事がすごすごと前に出た。
「見て分かりませんか。あの三人は活を入れれば、息を吹き返すはずです。早くなさい」
 水月を突かれて気絶している人間は、麗子の言うとおり活を入れれば息を吹き返すことは間違いない。
 (ついでに作者に言わせて頂ければ、活を入れる方法は実に簡単です。二〜三種類あるが誰でも少し習えばすぐ出来るものです。習得しておけば役にたつことがあるかもしれませんよ)

 救急車が到着し、脇腹を骨折した男と前歯を砕かれた男を乗せる頃、貴彦もだいぶ落ち着き、半眼が普通の目つきになった。
「気を付けろ、我々が押さえなければ一分の後には、全員が倒され数人の死者が出たところだぞ」
 熊田が乱れた呼吸を押さえながら言った。肩を落としてうなだれている渡辺組長は、自分が原因かもしれないとは思いながらも、何でこんな眼にあわなければならないのか、今ひとつ納得できない。
「先輩はな、妹さんに危害が及びそうになるとこうなるんだ。解ったか!」
 解るも何も、つい今しがた見せつけられたところだ。
「安岡、世の中には怖い人がいるんだ。わしら程度の実力ではどうにもならん化け物がな」
 安岡は熊田の忠告が骨身に染みたのか黙って頷いた。
「どうなさいますの、警察に被害届をだされますか」
 麗子が冷静な声で云った。眼は岩崎会長を見つめている
「い、いえ、そのつもりはございません」
「そうでしょうね、ヤクザの五人が堅気に一瞬のうちにのされたのでは、面目まるつぶれですものね。では慰謝料でも請求なさるおつもりですか」
「と、とんでもございません」
 岩崎会長の額からは汗が噴き出ている。
「では、そういうことで。お兄様、摩美ちゃん、由美ちゃんお部屋に行きましょうね。熊田さん後始末はお願いよ」

「さすがの岩崎さんも、まいったようですな」
 老人が、岩崎会長のところへ近寄った。
「あッ、あなたは! ご、御老公様!」
 ロビーの空気が一瞬、凍り付いた。熊田、安岡を含めた全員が眼を剥いた。岩崎会長が御老公と呼ぶ方は、他にはいない、吉田一家総長その人である筈だ。
「熊田さんと申されましたな」
「は、はい」
「今後の、旅館の運営方針を、岩崎さんに話してお上げなさい」
「は、はい!」
 熊田の声に張りが戻った。御老公がそう言われるのである。吉田会、一万二千人の了解を得たのと同じ事である。
「これは、これは、怖そうな皆さんがお揃いで」
 作務衣を着て総髪を後ろに束ねた、貴舟が雪駄履きで、ひょこひょこ入ってきた。
「御老公、いったいなにごとですかな」
「ご住職、たいしたことではございませんよ、しかし、おたくの甥御さん、姪御さんはたいしたものですな」
「ははー、貴彦が暴れましたかな。救急車の音がしましたが、死人は何人でましたかいのう」
「残念ながら、ここに居られる熊田さんと、妹さんが何とかなだめられて死人はでませんでした」
「そりゃー、確かに残念だ」
「ご住職、ソープランドはいかがでございましたか?」
 上品な老婦人が貴舟に笑いながら尋ねた。
「麗子のやつだな!」
 面目なさそうに、貴舟は頭を掻いた。
 三人の会話は、強面連中をまったく無視している。御老公と親しげに話す貴舟を、岩崎会長と渡辺組長は怖々見つめている。古川社長などは先ほどから隅の方で小さくなったままだ。
 安岡刑事は、熊田に言われた言葉を反芻しているようだ。間違いなく世の中には化け物がいるのだった。
 どたばた劇の一夜は明けた。朝食を終えた、登場人物が玄関前に一堂に会している。
「このたびは、本当にありがとうございました。おかげで救われました」
 社長夫婦が深々とお辞儀をする。
「なーに、たいしたことじゃないよ」
 貴舟が胸を張って答える。
「おじさんは、何もしていないじゃないか!」
 大人しい貴彦がさすがに声を荒げた。
「年長者に向かってそんな口を聞くもんじゃない。亀の甲より年の功という言葉もある」 貴舟の発言は意味不明である。貴彦は相手をするのも面倒だとばかりに、社長の山田直樹に話しかけた。
「まだまだ、細部の詰めは残っていますが、安心して大丈夫ですよ。あとは手はずどおりに進めるだけです。何か緊急事態が生じたら私に連絡下さい」
「なにからなにまですみません。妻や数少ない従業員と手をたずさえ、旅館をもり立てていきます。つきましては、この場に居合わせておられる皆様は、いつこの宿に来られても、無料にさせてください」
「えッ、ほんとうですか!」
「だめよゲンちゃん。仲間をいっぱいつれてくるともりでしょ。ビジターは、なしよ」
 摩美は、ゲンのことはお見通しのようである。
「さー、いつまでいても仕方ないから、帰りましょ。ゲンさんの車にみんなで乗りましょう。どうせ、ただだと聞いたら、おじさまは居続けるに決まってますもの」
 麗子は、貴舟の気持ちはお見通しである。
 貴彦が少し考え込むような素振りをみせる。今回の家族旅行は何だったのか、腑に落ちないとでもいうように。

次ページへ小説の目次へトップページへ