永久に未完の組曲
お兄ちゃんはサラリーマンの巻(二)



 
 

「今日は、かなり空いていますね、江戸川大橋まで一時間掛かりませんでした。木更津まであと一時間半ぐらいですかね。館山自動車道が出来て楽になりましたよ」
 運転手の寺田は、ベンツのハンドルを快適そうに握っていた。歳は五十過ぎで勤続三十年、先代の社長の時から運転手を務めている。
「寺田さん、急がなくても良いですから飛ばさないでくださいよ」
 貴彦は後部座席から声を掛けた。
「あら、ミカドさんは、スピードが怖いの」
 山下美智子は、砕けたときには貴彦のことをミカドさんと呼ぶ、時にはミカド君になることもある。
「こ、怖いわけではありません。スピード違反で警察に捕まっては、と思うんですよ」
「寺田さん、ミカドさんが怖いそうですから、スピードを落として下さいね」
「山下さん、了解だよ。しかし、先代の社長は飛ばすのが好きだったね。今の会社はみんな大人しくなって、あんまりおもしろくないよ」
 ごま塩頭で角刈り、ずんぐりした体型の寺田が不満そうに言った。
「山下さんは、知っているよね。築地市場の大立ち回りを・・・・・」
「ええ、有名な話しですものね」
「あんときゃ凄かったよ、魚市場も今みたいに近代化されてなくてね、彫り物を入れたのがゴロゴロいてさ・・・・・」
 寺田と美智子の話を聞いている貴彦は、先ほどから隣に座る美智子の太腿が眼にちらついて仕方がない。薄グリーンのタイトスカートから、型の良いそろえた足が、延びているのだ。
「ミカド君、工場についたら、直ぐに会議が始まると思うから。もう一度書類を読んでおきましょうよ」
 急に美智子が貴彦に振ってきた。
「は、はい」
「どうしたの? 何か緊張してるみたいだけど」
 ニコリと微笑んで足を組み直した美智子の、真珠のピアスが眩しい。


袖ヶ浦ICを降りて、海岸に向かって走る。行く手には、全国に勇猛果敢の名を轟かせている、木更津空挺団の所属する陸上自衛隊木更津駐屯地がある。
 JR木更津駅の手前、あじさい通りという可愛い名前の通り沿いに山尾食品木更津工場があった。四千坪の敷地に鉄骨スレート葺きの工場が三棟建っている。従業員は二百五十名、そのうちパート職員が二百名、主として冷凍食品を扱っている。
 三人は、応接室に通された。七、八人は入れそうな大きな部屋である。
「やー、お疲れ様。北御門君と山下君が来てくれて良かったよ。実際、堀田のバカじゃどうしようもないからな。おッ、寺田、お前も来たか」
 福永工場長は満面に笑みを浮かべて、貴彦を迎えてくれた。歳は六十近く、寺田によく似たガッシリとした体型の、いかにも職人という風貌である。
 先代の社長の薫陶を受けた叩き上げで、今は取締役工場長の役職にある。
「福永さん、元気そうだね」
「寺田、お前は会うたびに老け込んでるぞ」
「そう言う、あんただって好々爺になって、昔の迫力はないな」
 どうやら、二人は築地の魚市場で暴れ回った仲間らしい。
「北御門君、堀田の下じゃ遣りにくいだろう。厭になったら木更津へ来いよ、君はパートのおばちゃん達に人気があるから、居心地がいいぞ」
 福永工場長は、貴彦を気に入っているらしい。
「ミカド君、工場長の言うこと本当よ」
 美智子がそっと耳打ちをした。
「もうすぐ昼だ、仕事は午後にしよう。君たちの昼飯も取っているから、先に食堂にいっていてくれないか」

 食堂と言っても、調理場がある訳じゃない。仕出し弁当を取るのである。弁当持参の者も多い。貴彦も何度か来たことがある。
「いらっしゃい」
「よく来たわね」
 二人の食堂のおばさんが、満面に笑みを浮かべて声を掛けてきた。
「どうも、こんにちは」
 貴彦は明るく切り返す。食堂は百人は入る広さがある。お茶の準備や、テーブルの整理に二人のおばさんが立ち働いていた。食事は交代制で順番に取ることになっている。
「今日は、山下さんと一緒なんだね」
「おばさん、おじゃまします」
 美智子のおばさんを見る目が優しい。
「あんたにゃ、色々世話になるね」
 山尾食品の主である美智子の眼は、会社全体を温かく包んでいるのだろう。
「ところで山下さん結婚はまだかい。好きな男はいないのかい」
「いい人なんていませんよ。それにこんなにおばーちゃんになってしまって、誰も相手にしませんわ」
「とんでもない、あんたホントに綺麗で魅力的だよ」
「おばさんじゃあしかたないわね。男の人が言ってくれなくっちゃ」
 女三人が声を合わせて笑った。一人のおばさんが真顔になって、
「あんたら、お似合いじゃない?」
「えッ」
 思わず、貴彦の喉から声がもれた。
「おばさん、止めてよ。歳が十も離れているのよ」
 美智子はまんざらでもなさそうな顔を、貴彦に向けた。
「北御門さん、どうなんだね」
「み、美智子さんは素敵です。綺麗です」
「えッ、美智子さんだって! あんたら、もう出来てるのかい?」
「じッ、冗談じゃないですよ」 
 慌てて、貴彦は否定した。
「冗談? そんなひどいこと言わなくても良いじゃないの、ミカド君・・・・・」
 美智子は目頭を押さえる真似をした。ペロリと舌を出しながら。
「え、ミカド君だって! そうかいそうかい、あんたら今夜は、木更津泊まりだよね」
 貴彦は高い身長を持てあますように、オロオロしてしまう。その姿を見た女性三人は、堪えきれずに笑い出した。

 食事のあと、工場長、業務課長、製造課長、美智子と五人で打ち合わせをしていたところに、年配のパートのおばさんがやって来た。
「すみません、北御門さんに少し話しがあるんですけど・・・・・」
「えッ、なんです?」
「ここでは、ちょっと・・・・・」
「北御門君、いいよ、行っておいで。こちらで打ち合わせはするから」
 工場長は意味ありげに言った。
「北御門さん、さァー、さァー」
 お構いなしに、白い作業服とズボンに身を包んだ五十過ぎのおばさんは、貴彦の袖をひっぱり何処かへ連れて行こうとする。貴彦は、不安になって美智子の表情をうかがった。彼女は貴彦を見つめ微笑んでいる。工場長は口を開けて笑みをこぼしていた。
「北御門さん、早くいらっしゃいよ」
「は、はい」
 袖を掴む腕力は相当なものがある。身長は百五十pぐらいで貴彦の肩までもないが、体重は貴彦よりも間違いなく重いはずだ。
 連れ込まれたのは、三十畳もあろうかという畳の部屋だった。五十人以上の従業員を抱える事業所は、休息室の設置が労働基準法によって義務づけられている。
 部屋のドアを開けると、白い作業用の長靴がところ狭しと並んでいた。
「来た!」
 どこからともなく、異様なかけ声が掛かり、貴彦は白い作業服姿のおばさんに取り囲まれてしまった。
「早く、いらっしゃい!」
 手が次々に延び、貴彦の上着を掴む、ズボンのあらぬところを掴まえられないだけ良しとしなければならないだろう。
「こっちよ、こっち!」
「座って、座って」
 部屋の一画に、長い足を窮屈そうに折りたたんみ、ちょこんと座らされた貴彦は、十数人の女性に取り囲まれた。
「食べなさい」
「美味しいわよ」
 貴彦の目の前に次々とお菓子の袋が出てくる。おかき、ポテトチップ、チョコレート、ピーナッツ、実に様々である。
「北御門さん聞いてくれる」
 四十過ぎと思われる、ちょっと色っぽい女性がにじり寄ってきた。
「な、何ですか?」
「実は、夫とうまくいってないの」
「なにがですか?」
「いやねー、スケベー」
「えッ!」
 貴彦の背筋が伸びた。
「夜の生活よ!」
「吉川さん駄目よ、北御門さんを、からかっちゃ。でもね、確かに残業が多くて家に帰ったら、グッタリすることは確かね」
「そう、そのとうりだわ。生産に追われて、ラインを止めるわけに行かないのは分かるんだけど、確かにきついわね」
「そうなんですか、家庭の主婦だと帰ってからの家事も大変ですよね」
「北御門さん、分かってくれるから好きだわ」
 横からそう言うと、両手で貴彦のを押さえる女性も出てくる始末だ。完全に貴彦はオモチャにされている。

「あなたたち、交代勤務の時間じゃないの」
「うるさいわね、分かっているわよ。じゃあ北御門さん、あとのミーティングの時間にね」
 そういうと、今まで取り囲んでいたグループはゾロゾロと部屋を出て行った。
「本当に、はしたない連中なんだから。こっちにいらっしゃい」
 そう言う別のグループに、貴彦は拉致されてしまった。
「バカじゃないの、お菓子の紙袋を拡げてそのまま出すなんて。女もああなったらおわりね」
「北御門さんどうぞ」
 剥いたリンゴを大皿に乗せてもってきた。
「あなた、母性本能をくすぐる、結構いい男なんだから気を付けなさいよ」
「食べさしてあげるよ。はい、あーんして」
 爪楊枝に突き刺したリンゴを口のところまでもってくる。まるで子供扱いだ。
「北村さん、北御門さんに悪さしちゃだめよ」
 勝手にみんなは手を叩いてわらいだした。北村さんと呼ばれた女性は、結構色香を漂わせた熟女に見える。
「北村さん、北御門さんには、山下さんがいるんだから、手を出しちゃだめよ」
「そうね、山下さんじゃあちょっと太刀打ちできないわね。今夜、ホテルに押しかけようと思ったんだけど、あきらめたわ」
 みんなは、声を出して笑った。さすがの、おばさん連中も美智子には一目於いているらしく貴彦は感じた。それにしても、北村という女性の貴彦を見つめる眼の奥に、誘うような色がみえた。美智子と一緒でなければ、本当にホテルに来かねない。

「北御門さん、食べて下さいな」
 見れば、六十過ぎのおばあちゃんと言っても不自然でない女性だった。小さなお盆にお茶と、蕪の糠漬けを乗せている。
「北御門さん、食べてみて。山本さんは、漬け物の名人なんだから」
 貴彦は一口食べてみた。口の中がしびれ、唾が自然に沸いてくる。旨い、確かに旨いのだがそれ以上に、口の中がビックリしているのだ。素朴な手作りの糠漬けなど、食べた記憶がとんとない。
「山本さん、美味しいよ!」
「ありがとうね、そう言ってくれると本当に嬉しいよ」
 顔の皺を伸ばすように、山本さんは微笑んだ。
「北御門さん、山本さんの漬ける漬け物はね、全部自分の畑で育てた野菜なんですよ」
「へーそうなんだ。こんな美味しい漬け物を食べた記憶がないよ」
「ありがとうね北御門さん、みんな優しいんだよ。ろくに働くことも出来ないこんな年寄りを工場長さんは雇ってくれてね、身体に気を遣ってくれるんだから。ありがたい、ありがたい・・・・・」
「みんな優しいだろ。北御門さん工場においでよ。山本さんの漬ける旬の野菜の漬け物が食べられるんだよ」
「旬? 野菜の旬て何のことですか?」
「あんた、知らないの! 食べ物には全部旬があるんだよ。お母さんから教わらなかったかい」
「母は中学一年の時、父は高校一年の時、死にました」
「北御門さん、お宅に漬け物を送らせてくださいな。旬の美味しい物漬けますから」
 山本さんが、貴彦を見る目は真剣そのものだった。 
 その後も入れ替わり立ち替わりパートのおばちゃんが貴彦に挨拶に来る。挨拶と言うより多分に彼をからかいオモチャにしているのだが。
 昼休みの終わりのチャイムが鳴った。一時半からは、まず正社員に対する説明会が始まる。
 誰もいなくなった休息室で、貴彦は麗子の携帯に電話を入れた。今日は木更津に宿泊するむねの連絡であった。

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