永久に未完の組曲
お兄ちゃんはサラリーマンの巻(七)



 
 

「おい、用件はなんだよ、近藤はいったい何の用事で訪ねてきたんだ」
「お兄ちゃん、ちょっと待ってよ。いま食べてるんだから」
 貴彦と摩美は、代々木駅前から少し奥まったところにある、洒落たレストランに座っていた。貴彦は牛丼屋にさそったのだが、そんなことで承知する摩美ではない。ここぞとばかりに 半透明の大きなガラスに囲まれた、グリーンの溢れる店に飛び込んだのだ。
「ここのお肉美味しいね!」
「何の用だったんだよ」
「お兄ちゃん、そのポテト食べないんだったら、摩美ちゃんにちょうだい」
「ああ、いいよ」
 返事を聞く前に、摩美は向かいからフォークと一緒に身を乗り出し、貴彦の前にある焼けた鉄板皿からポテトフライを取っていた。皿には、ステーキと茹でた野菜がのって、まだソースが焦げる音をたてている。
「そのかわり、人参あげるね」
「いいよ、俺が人参きらいだってこと知ってるだろうが」
「ああ、そうだったわね。じゃあ摩美ちゃんにちょうだいね」
 ステーキ皿は、運ばれてきたばかりである。まだほとんど手を付けられていない状態だ。むろん、摩美の皿の上にポテトも人参もあるが、すでに兄のものも食べるつもりらしい。まあ、いつものことではあるが。

「摩美、近藤の話はどうだたんだよ」
「どうしても聞きたい?」
「それを言いに、俺を訪ねて来たんじゃないのか」
「そうね、虎屋の羊羹ももらったことだし、いいわ話したげる。近藤さん、高校の社会科の先生でしょ、そして、社会学会にも所属しているて知ってるわね」
「ああ、知ってるよ、奴らしく真面目に地味にやっている。それが?」
「近藤さん、なんとか先生の還暦記念論文集に、論文を書くように頼まれたらしいの。それで、テーマが、“男女雇用機会均等法の現実”ということで、お兄ちゃんの会社のことを色々教えて欲しいんだって」
 食べながら話しをするのは、摩美の得意とするところである。肉を噛みながら平気で話しをし、それが相手に不作法と感じさせず、むしろ可愛く思えてしまうのだ。摩美の素直な魅力のせいかあるいは、冷徹な計算に基づくのかは、よくわからない。
「そーか、うーん。でも、会社のことを外部に漏らすのは問題あるしな」
「単なる、データー集めじゃないの。例え事例で挙げられたとしても“某社”程度だと思うよ」
「わかった。今度時間を取って彼奴に協力してやることにしよう。ところで、お前は男女雇用機会均等法についてどう思うんだ」
「えっ、わたし。うーん、あんまり興味ない」
「興味ないって簡単に言うけど、そんなもんじゃないぞ。俺は総務部という仕事柄、無関心でいるわけにはいかない。とくに若い女の子たちは、皆、凄い興味をもっているぞ」
「それって、自立する女でしょ。わたし自立しないもん」
 まったく躊躇なく、平然と摩美は言い放った。
「じ、自立しないでどうすんだ。家長として、俺にはそうする義務がある。死んだ父母に申し訳ないじゃないか」
 家長などという意識に凝り固まった、貴彦の脳細胞は明らかに前世紀の遺物である。その意識が“均等法”施行の精神とまったくそぐわないことを本人は自覚していない。

「なぜ、自立しなけりゃいけないの。わたしは職にはつかないで結婚し、夫に依存するんだもん」
「だめだ! そんなの。相手に依存してみろ、相手の顔色を窺いながら人生を送らなければならなくなるぞ」
「えっ、そんなことないよ。摩美ちゃんは可愛いから、相手の男はみんな、大事にしてくれるよ。顔色を窺うのは男の方なんだから。夫は『摩美ちゃんさえ居てくれたら何にもいらない』といって私に抱きつくのよ、私はうんうん何処にも行かないよと言うの。そして、犬と猫を飼っていい。両親との同居はだめよ。白金の大きな庭のある一戸建て住宅に住みたいと言うの。夫は、摩美ちゃんの望むものなら何でもかなえると耳元で囁くの・・・・・」
 摩美は決してふざけてなんかいない。ニッコリ笑っているが、貴彦には本気に思えるのだった。
「お前、ちょっと都合良すぎないか。若くしてそんな金持ちはそうそう居ないぞ」
「お兄ちゃん、お金があるだけじゃ駄目なの。社会的なステータスが不可欠だわ」
「た、例えば?」
「何度も言ってるでしょ、医者、弁護士、キャリア官僚、外交官、大学教授・・・・・てところかしら。そういう人の奥さんじゃなきゃ駄目」
 じゃ、いったい俺はどうなんだと落ち込む貴彦であった。

「確かに、摩美は可愛い。これは間違いのない事実だ。しかし、人間は歳を取るぞ。四十五十になったら、どうするんだ」
「摩美ちゃんは、何時までたっても可愛いの。例えばそうね、八千草薫さんみたいにね」
 この自信はいったいどこから来るのだろうか。貴彦はどう頭をひねっても、楚々とした日本的美人の八千草薫と、摩美のたたずまいが重ならないので困ってしまった。
「そうかも知れんが、いざという時に、一人でやっていけるだけの準備は必要だぞ。人に依存しっぱなしだと、きっと不安になることもあると思う」
「全然、不安になんかならない。だって、今、お兄ちゃんに依存しっぱなしだけど、不安もないし、顔色を窺うこともないよ」
 確かにそれは言えている。顔色を窺うのはむしろ貴彦の方である。
「俺は別だ、俺みたいな男がそうそう居るわけがない」
「そーかなー・・・・・」
「なんだその、奥歯に物のはさまったような言い方は」
「お兄ちゃんは、駄目男なんだってね」
「だ、駄目男だと! 誰がそんなこと言ったんだ。熊田か、近藤か、それとも・・・・・絶対殺す。摩美、隠すな、言うんだ!」
 貴彦はテーブルに拳を着け、身を乗り出した。話しに夢中になっていたせいか、ステーキにはほとんど手をつけていない。一方、摩美はステーキをほぼ食べ終わっている。
「お姉ちゃんよ」
「えっ・・・・・お姉ちゃんって、もしかして麗子・・・・・」
「わたしが、お姉ちゃんって言う人は他にいないでしょ」
 ぱんぱんに張りつめていた風船が、穴が開いてしぼんでいくように、貴彦の身体が小さくなっていく。
「どうしたの、お兄ちゃん。ステーキ食べないんだったら、もったいないから私が食べるね」
「う、うん・・・・・」
 どうやら貴彦は、三人の妹には絶対勝てないことを、やっと自覚したようだった。

「お兄ちゃんも、結婚を考えないことはないんでしょ」
「そんなこと考える余裕はない。お前たち三人を無事に嫁がせることが俺の義務だ。家長としての責任だ」
「分かった、分かったわよ。もう何回その言葉を聞いたことかしら・・・・・でも、お兄ちゃん付き合っていた人がいたじゃない、綺麗な人だったわね、わたし、結婚するんだとばかり思っていた」
「ああ、あの人か・・・・・そのつもりもあったんだけど、振られたよ」
「振られたって、お兄ちゃんらしいけど、どうして振られたの?」
「それが、分からないんだ。ある日突然、俺を罵って、平手打ちさ」
「それって何なの?」
「何だろうね。それで終わりだよ。訪ねていっても会ってもくれないし、電話もすぐに切られるし。思いあまって麗子に相談したら、めんどくさそうに『諦めなさい』の一言だった」
「お姉ちゃんらしいわね」
「俺ってやっぱり駄目な男なのかな・・・・・」
 貴彦の身体は、塩をかけた菜っ葉のようにますます縮こまっていく。
「お兄ちゃん、あんまり気にしない方がいいよ。お姉ちゃんに掛かったら、男なんてみんな駄目に決まっているんだから」
「まあ、確かにそうだよな」
 そう言う、貴彦の言葉には力がない。末っ子の由美にとっては、武道以外ではほとんど彼は眼中にないようだ。気にしない方がいいよと慰める摩美にとっての男とは、医者、弁護士、外交官・・・・・中小企業のサラリーマンの自分は何なのだ。さらに、麗子にとっては、男はすべからく駄目らしい。
 自信喪失という出口のない虚脱状態にため息がでる。貴彦の目の前では、摩美がもうすぐ彼の分のステーキも食べ終わりそうだった。

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