永遠に未完の組曲
夕焼けに去っていったの巻(八)



 


 「キェーッ!」
 鳳凰の悲鳴とも見紛う、猛禽類の威嚇音が響く。イチローの裂帛の気合いであった。
 同時にトカレフから発射された弾丸は、ダァーン! ヒュー! 吉松の頭上を掠め、金屏風の鳳凰の眼に穴を穿った。
 イチローの放った徳利は、正確に襲撃者の手首を捉えて、銃の照準を狂わせたのだ。
 彼の動きは速かった。席を蹴ると、若者が銃を構え直そうとする余裕を与えず、後頭部に手刀を叩き込んだ。
 襲撃者は畳の上に俯せに倒れ、そのまま動かない。一瞬の出来事だった。人々が事態を理解するのに、僅かな時間を要した。その間、宴会場は静まり返っていたが、すぐに喧噪の渦に巻き込まれた。先ほどまで、腰を抜かしていたと思わしき、直神伝厳統流の一団が血相を変えて駆け寄ってきた。どうやら自らの役目に、やっと気が付いたようだ。
「動くな!」
 イチローの一喝と、眼光に射すくめられた彼等は、つんのめるように止まった。動き始めていた極道は一瞬怯んだが、眼を血走らせ襲撃者に襲いかかろうとする。
「静かにしろ!」
 石田組長の凛とした声が響き渡る。狙われた本人の吉松は、先ほどから俯いたまま面を上げようとしない。イチローは事情のあることを察した。

「皆の者、静かにしてくれ。一寸した訳があるのだ、儂と吉松は席を外すが、他の者はこのまま宴会を続けて欲しい。騒がないで平然としてしてくれ。事情は後で説明する」
 そう言われても一座の興奮は収まる筈は無い。放免祝いという、ヤクザに取っては最も厳粛な式を、銃弾で汚されたのである。興奮のあまり、そこかしこから怒号も飛び交うのも無理はない。いちばんいきり立っているのは、直神伝厳統流の一団である。相手が戦闘能力を失った時に、嵩に懸かるなどは、お里が知れている。
 イチローは膳の前に戻ると静かに坐った。皆の注目が彼に集まる。由美は満足そうな顔をして、あぐらをかいた膝に肘を当て彼を見つめる。田所も腰を降ろし、自分の膳に置かれた徳利で、黙ってイチローの盃を満たす。この男も肝っ玉が据わっている。
「よし、飲み直しだ!」
「おーっ!」
 どこからともなく声が掛かった。宴会場の緊張がゆるんでいく。
 組長は、側に控えるボディーガードの二人に顎で指示を出し、襲撃者を抱きかかえさせ部屋を出て行く。黒いスーツを着込んで、年の頃なら二十歳過ぎだろうか、眼を閉じ意識はないようだ。吉松もその後に続いて部屋を出た。

「イチローさん、格好いい! 手裏剣術も稽古したのね?」
 由美の眼が輝く。
「貴舟師匠から、手ほどきは受けたよ。由美ちゃんも稽古しただろ?」
「うん、一応はやったけど、全然巧くないの。目標にまともに刺さらないのよ」
「僕も同じだ。手裏剣は難しいよ」
「でも、さっきは見事だったよ」
「たまたま、偶然だよ」
「えっ、偶然なの……」
 とても偶然とは思えないが、絵に描いたように巧くいったのは事実だった。
「あなた達、何ものなんですか? いま此奴に聞いたところによると、由美さんですかな、あなたはとんでもなく強いそうですね。そうだろ、山さん!」
「ええっ、まあ…」
 山さんと呼ばれた男は、返事を濁す。貴彦と由美が、石田組本部事務所に殴り込んだと出会ったようである。宴会でこの席に座って居るのは、かなり上席だと思える。
「大したこと無いよ。お兄ちゃんに比べたらヒヨッコみたいなもんよ」
「へぇー、お兄さんはそんなに強いんですか? こちらのイチローさんと比べてどうでしょう?」
「田所さん、とんでもありません。私なんかと比べる方がどうかしています。ねえ、由美ちゃん」
「そうね、確かに…お兄ちゃんが怒ったら凄まじいから、この場の全員で懸かっても敵わないんじゃないかしら。たとえ、拳銃を持っててもね」
「まっ、まさか!」
 田所の目が、信じられぬとばかりに見開かれた。山さんと呼ばれた男が、田所に耳打ちをする。
「そ、そうなんか?」
 田所の驚いた顔に山さんは、相づちを打つ。

「でも、さらに強いのが、姉ちゃんよ!」
「なんと! 姉ちゃんとやらは、何ものですか?」
 田所は、北御門兄妹にかなり興味を覚えたようだ。
「立教大学の大学院で、古代ギリシャ語の発音を現代に蘇らそうとしているの」
「こ、古代ギリシャ語? それが、どういう意味があるんですか?」
 田所は、怪訝そうに質問する。彼にはどうにも腑に落ちないらしい。それが、強さとどういう関係があるんだ? という顔をした。
「由美ちゃん、姉ちゃんって…もしかして、麗子さん…?」
 イチローが会話を取った。彼にしては珍しい振る舞いだ。
「そうか、イチローさん知らないんだ。冗談なんかじゃないよ、姉ちゃんはとっても美人で頭も凄く良いけど、強いこと強いこと…」
 由美の言葉を聞いて、イチローの喉がグゥと鳴った。よほど驚いたらしい。彼には麗子の佇まいから信じがたいようだ。


 その頃、北御門一家が集う「欅の間」で騒動が持ち上がっていた。食後の後かたづけも出来てない部屋で、社長の直樹と女将の多美子が、慌てふためき深刻な相談を持ちかけていたのだ。部屋にいるのは、貴彦、熊田、ゲン、摩美の四人である。麗子は、自分にあてがわれた部屋に籠もって顔を出していない。
「……というわけで、宴会場は大騒ぎになったんです」
「でも、社長の話によると、イチロー君、石田組長の配慮で収まったのなら良かったじゃありませんか」
 貴彦は落ち着いて返事をする。確かに一見その様に思える。
「それが、またもや問題が持ち上がったのです。発砲事件にビックリした女中がフロントに駆け込んだんです。動転したフロントが、熱海警察に連絡してしまいました。もうすぐ警察が来ます。どうしましょう! け、警察は困ります!」
 何と言ってもこのホテルは、広域指定暴力団吉田会の指定保養施設である。警察が乗り込んでくるなど、あってはならぬことであった。
「吉田会の皆様には、本当に可愛がって頂いてますのに……こんなこと…」
 女将は涙ぐんでいる。
「おい、熊田! なんとかしろ!」
「貴彦さん、そりゃ無理です。なんたって、ここは静岡県警の縄張りですから」
 熊田はヤクザの様なことを言う。
「柄の悪い友達が居っただろうが、先ほど会ったんじゃなかったか?」
 柄が悪いは余計である。
「まあ、その通りですが…マル暴の安田ですよ」
「マル暴! そりゃあ良い、そ奴に、頼め!」
「でも…奴は変なところで律儀ですから」
 熊田は嫌がっている。話しは一向に進展しない。社長と女将は不安そうな顔を隠さない。
「お兄ちゃん」
 摩美がニッコリ笑って口を挟んだ。どうやら良い考えが浮かんだようだ。
「なんだ摩美!」
「困ったときの、お姉ちゃん…どう?」
 彼女は、自信たっぷりに言った。その言葉を聞いて、貴彦は一瞬間を開け、うろたえるような気配を見せた。
「摩美ちゃん、すごい! いい考えだよ!」
 脳天気なゲンが、その通りだとばかりに手を打った。

「バカーッ!」
 熊田刑事が、ゲンの後頭部をブッ叩いた。
「なっ、何だよ! クマさんひどいよ!」
 ゲンは不満げに、熊田を見つめた。
「なにぉーっ! てめえなんぞに、クマ呼ばわりされて堪るか!」
 熊田は、もう一発ゲンを殴った。
「困った時の、麗子さん! こりゃ警視庁でも有名だが、解決の仕方が尋常じゃないぞ、分かってるだろうが! そうだよね、貴彦さん」
「うむ、そりゃそうだが、警視庁で有名とは…?」
 貴彦は気づいていないが、「摩美ちゃん、誘拐事件」「新宿西口暴走族抗争事件」での麗子の活躍は、現場の刑事の間では、ヒソヒソささやかれ伝説になっていた。
「熊田様、お願いです。どうか助けて下さい」
 女将は必死に懇願する。それもその筈、このゴールデンホットアイランドホテルも、麗子の機転で救われたのだった。
「北御門さん、お願いします」
 社長の直樹も貴彦に頭を下げる。
「おい、どうなんだ熊田よ!」
「えっ、まあ…」
 熊田は複雑な心境であった。麗子のことが好きでたまらぬ彼だが、麗子の怖さも骨の髄まで知っている。
「わたし、お姉ちゃん呼んでくる!」
 そう言うが早いか、摩美は部屋を駈け出した。彼女は部屋に籠もって、ノートパソコンに向かって居るであろう麗子の世界に踏み込み、世間に引っ張り出そうと言うのである。 既に、歯車は回り始めたのだ。引き返すことなど出来はしない。もはや、事態の進行は誰にも止めることは出来ないだろう。貴彦の家長としての命令でも……恐らく無理であろう。心配げな、熊田の心を知らずや、社長と女将の顔は輝いた。
 その時、どこからともなく、パトカーのサイレンが響いてきた。一台や二台では無い数である。どんどんホテルに近づいてくる。

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