空 蝉
<12>



 
 応接室で、久江と磯貝、清隆の三人が話し込んでいた。
「ぼっちゃん、よかった、よかった。これでわたしも安心です」
「磯貝さん、早苗ちゃんの字をみてどう思います」
 清隆は、磯貝に問いかけた。
「俺も、剣道家の嗜みとして、いささか書をやっておりますが、見事なものです。あの一の字は、とても凡人に書けるものだとは思えません」
「小田原に良い書道の先生は、居られませんでしょうか?」
「そりゃまあ、俺の先生も書の世界では有名ですが、輝隆先生と清隆さんにはかなわないと一目置いておられますよ。やはり、清隆さんが指導をなさったほうがよろしいかと」
「私では、駄目です。早苗ちゃんは世に出るべき人です。私にそれはできません」
「清隆さんがそう仰るなら、俺に異存はありませんが・・・・・」
 すこし納得しかねる顔で磯貝が言った。
「それで、ぼっちゃん早苗ちゃんですが、ここに置いてもらう訳には行きませんでしょうか?」
「むろん、ずっといてもらいます。面倒でしょうが久江さん、あの子の母親変わりになって頂けますか?」
「まっ、任せて下さい! たとえ実の母親が来たとて、今度という今度は、渡してたまるものですか!」
「磯貝さん、わけがあってあの子には、大阪のヤクザとの繋がりがあるんですが」
「皆まで言わないで下さい、指一本触れさせるものですか」
「お願いします。私も、すぐにも三橋の親分さんに連絡して、かたを付けて貰おうと思っています。相応の金銭は惜しむものではありません」
「それだったらまったく問題はありません。ようは、ヤクザは金です」
「ぼっちゃん、今日は珍しく良く話されますね?」
「えっ、そうですか、別に意識していませんが?」
「いや、確かに。それに明るくなったみたいだ」
 磯貝も久江の言葉を肯定した。

「さあ、ぼっちゃん食事にいたしましょうよ。磯貝さんもいらっしゃいな、綺麗な女性がいっぱいですよ」
「えっ、まあ・・・・・」
 磯貝の頬がゆるみ、頭を掻きながら満更でもない顔をした。
「・・・・・久江さん、実は・・・・・父が亡くなったのです」
 さりげなく清隆は大変なことを言いいだした。
「えッ、な、なんですって・・・・・!」
「せっ、先生がですか!」
 久江も磯貝も口を開けたまま、言葉を失ってしまった。
「先ほど、久江さんが父の寝室に入ってくる少し前のことです。静かな臨終でした」
「では、先ほど旦那様は・・・・・お休みだってのではなく・・・・・!」
 久江は混乱して、何と言っていいか分からないように見えた。
「た、大変だ! まず医者に来てもらわねば!」
 磯貝が立ち上がりかけた。
「まって、今日の参会者の中に二〜三人医者がいたはずよ!」
 そう言うと、久江は外に駈け出した。
「警察関係に至急連絡をとります」
 磯貝も部屋を出て行った。輝隆は請われて神奈川県警の武道師範をしていたことがあり、弟子が数百人はいるのであった。

 白川邸は上を下への大騒ぎになった。輝隆の死は、誰もが予期していたことではあったが、藤光会のその日に起こるとは思っていなかったようだ。
「仲の良いご夫婦だったから、旦那様はきっとこの日を選んだのよ」
「奥様の時も、今日と同じく藤の花が綺麗に咲いていたわね」
「もう、あまり長くはないと、思っていたけれど・・・・・」
 ほうぼうから、話し声が聞こえてくる。
 いずれにせよ藤光会の宴は、中止のやむなきに至った。久江と磯貝が中心となって、葬儀の手配が始まる。
 久江が駆けずり回る。男手がなく、行きがかりじょう磯貝が手助けをすることになった。
「久江さん、葬儀の場所は小田原の公会堂がいいかと思うんですが?」
「駄目です、磯貝さん。葬儀は白川邸に決まってるではないですか」
「でも、警察関係者だけでも数百人は集まりますよ。立派な庭園が痛むことになってしまいます」
「葬儀は此処で御願いします。庭が痛んでも構いません」
 清隆の言葉ですべてが決した。

「清隆さん、俺も葬儀は何度も経験した。久江さんと二人で取り仕切ることにする。あんたが細かいことを案ずることはない。ただ、でんと構えて挨拶だけしてくれ。良いでしょ久江さん」
「磯貝さん、分かりました。藤光会の全員に手伝わせますわ」
「俺も、小田原署に連絡をいれて、警備、交通整理の要員を二十名ばかり手配する。署長も輝隆先生にはあれだけ世話になったんだ、拒否する筈がない」
「葬儀社、寺・・・・・それから、連絡する人、すぐに分担して手配しましょう」
 興奮気味に話をする二人の側で、清隆は端然と正座をしていた。

 白川邸の、普段はほとんど使用しない六つの部屋の襖が取り払われ、大広間が出現した。
ここだけで、二百人は収容できる。更に縁側を開き、庭に椅子を並べれば焼香の人並みを十分にさばけるだろう。
 これだけの騒動になっているが、大きな白川邸の、奧に寝ている早苗のところまで物音が響くことはない。
「旦那様は大往生ですわね」
「藤光会の当日に、亡くなられるなんて。ご夫婦の絆が強かったんですね」
 葬儀の手伝いをしながら、藤光会の面々がほうぼうで話し込む。
「旦那様も、幸せよね。あんなに可愛がってらした、清隆さんに最後を看取られたんですもの」
「五月六日・・・・・今日は、清隆さんの誕生日じゃなかったかしら・・・・・」
「そうよ、間違いはないわ。その清隆さんだけど、なんだか明るくなったとは思わない?」「そりゃそうでしょうよ。何年間も、旦那様の世話をされていたんですもの。なんと言っても肩の荷が下りたんだと思うわ」
「ちょっと違うと思う。最後まで看取った満足感じゃないかしら・・・・・」
「いずれにせよ、これで清隆さんは自分のことが出来るんじゃなくって。優秀な人だから今後が楽しみよ」
「白川家を背負って立つんだからね・・・・・」

 喧噪の中、葬儀の準備は進んでいく。
「久江さん、実は少し独りきりになりたいんですが・・・・・」
 清隆が慌ただしく指示を出し続ける久江に言った。
「えーと、こちらの方はいいけど・・・・・磯貝さんどう?」
「こちらもいいですよ。清隆さん、葬儀の準備なんてバタバタするばかりだから、独りになって、輝隆先生のことでも偲んで下さい」
「では、遠慮なくそうさせて貰います。山に行きますが、夕刻までには帰ってまいります」
「ああ、いつも稽古をされるところですね。ぼっちゃん行ってらっしゃい」
 そう言うと、久江も磯貝も煩雑な葬儀の準備に没頭していった。

 田の畦道を、清隆の運転する四輪駆動車が疾走する。田圃は水が張られ、田植えの準備はすっかり整っている。もう一週間もすれば、あちらこちらで田植えが始まることだろう。穏やかな五月晴れに水面がキラキラ輝いている。ハンドルを握る清隆の顔は、何かを吹っ切ったような爽やかさに溢れていた。
 小屋に到着すると、休む間もなく手ぶらで清隆は山道に入って行った。洗い晒しの黒い剣道着と袴、足下は素足に雪駄履きのいつもの姿である。
 山籠もり用の小屋に着いたときにも、清隆は汗も掻かかず、呼吸も乱れていない。大きく開かれた眺望のもとに、曽我の平野が光に満ち溢れていた。田植え前の水を張った田圃が、陽を照り返し乱反射して煌めく。
 山の緑は、真夏のむせ返るような香気とは異なり、爽やかな風とともに新緑の芳香を運んでくる。
 眩しげな清隆の視線は、遙かに相模湾の青い海を望んでいる。まるで彫像のように、彼は立ち続けた。

 どのくらい時が経過しただろうか。清隆は踵を返すと、石清水の流れる滝に向かった。小さな滝は、清浄な水を滴らせている。
 清隆は、懐から懐剣を取り出し、滴る水の脇にある岩の上に置いた。そして、道着と袴を脱ぎきちんと畳むと、別の岩の上に置いた。いまや清隆は、白木晒しの下帯だけの姿になっていた。
 清隆は両手を挙げ打紐を解いた。彼の腋下には翳りがなく、白蝋の肌は光を照り返す。灰黒色の髪がばらけて背中に掛かった。滝の下にいくと、彼は天頂を水に打たせる。暫くすると顎を挙げ、顔で水を受けた。
しばらく水に打たれると、清隆は側の石の上に腰を下ろし顔を拭き、髪を拭いた。身体を覆っていた水は、彼の肌がはじいたごとくに、水滴となって落ちる。拭くまでもなく水分は無くなった。
 清隆は半乾きの総髪を束ねると、打紐できつく縛った。細い目尻が少し吊り上がった。彼は大きく息を吐き出すと、懐剣の鞘を祓い、青白い刀身を魅入られるかのように、注視し続ける。
 ふたたび大きく息を吐くと、滝の下に戻り石畳の上で結跏趺坐を組んだ。束ねた総髪の天頂に水が当たり顔面から首筋を流れていく。
「父上・・・・・もう私は、何も出来なくなりました・・・・・」
 清隆はそう呟くと、左手で右の耳の下を探った。あたりを付けたところに、古刀、和泉守藤原兼定の懐剣を突き刺した。刺したままの状態だと血は吹き出ない。彼の表情もまた変わらない。
「・・・・・おそばに参ります・・・・・」
 かすかにそう言うと、清隆は懐剣で頸動脈を掻き切った。鮮血が一気に噴き出る。清隆の蒼く暗い灰色の瞳に紅色の飛沫が散った。
 彼は白い歯を少し見せ、微笑んだ。その表情は恍惚としているようにも見える。石畳に飛び散った血痕は石清水に流される。
 首筋から流れ出るまっ赤な血液は、水に流され、清隆の胸から脇腹、股間へと白蝋の肌を舐め、石畳の隙間に吸い込まれていった。

 結跏趺坐のまま、うつむき加減に首を垂れた清隆の亡骸は、微動だにせず水に打たれている。鮮血は水に洗われ、白蝋の肌に変化は見られない。ただ、白木晒しの下帯だけは、紅に染まっていた。
 魂魄が離れ去り、死蝋と化すとも思える清隆の亡骸は、時を経てもそのままであり続ける空蝉のようであった。


                                         完

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