身 辺 雑 事

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 多摩川と自然



 毎日の通勤に東横線を利用している。新丸子から多摩川園の間に多摩川が流れている。そこに東横線の鉄橋が架かっておりその上を私の通勤電車は通る。橋の名は知らない。
鉄橋の下に多摩川の大きな堰がある。毎日それを眺めるのが、私の数年来の習慣になっている。瀑布のように落差をもって水が落下するとき、激しさはないが水量が豊富なとき、いずれでもなく穏やかに水が落下しているとき、堰はいろいろな顔を、私に見せてくれる。
 年に一度、堰の上を水が満たし、川面が鏡のようになる。最近では平成13年10月18日がそうだった。例年と異なるのは、1日だけであったこと、例年は2〜3日その状態がつづく。上流のダムの放流の関係か、大潮の関係か、その相互作用か、他に理由があるのか、考えはするが、河川事務所に問い合わせてみる気はない。

ある時、いつものように何げなく堰を眺めていた。日射しが優しく、川原の緑があざやか、堰のうえを水も優しく流れている。川岸では釣り人が1人、子供が2人、楽しそうに遊んでいる。仕事などしている場合か、今あの場所、に自分も行きたい、日射しは優しく、緑はあざやか、川はおだやかに流れている。自然は本当に素晴らしい。

その時、私の頭にある疑念が湧いてきた。自然は本当に素晴らしい!本当にそうか?マスコミを始め日々の情報をもとに、私の頭の中に形作られた観念ではないのか。人は本当の意味で自然を欲しているのか?

30数年前、今日のアウトドアライフの先駆けとして、雨が降れば洩る家型のテントと寝袋を担ぎ放浪したことがある。橋の下は寝場所としてすぐれていた、雨露がしのげるのである。納屋、農機具小屋などを使用する許可を得た時など天国であった。蚊、蠅、百足ほか虫の対策も大きな問題であった。
 田舎に住んだこともある。虫、蛇、鼠、モグラ、雑草、こちらも同じく、自然との戦いに多くの時間と精力を費やされた。これで、水道、ガス、電気がなかったら、いったいどうなるのだ。

 人間はいにしえより、自然を恨み、自ら、又、人との協力のもと自然と戦い、なんとか折り合って来た。「自然に帰れ」と言う言葉と、そこから生ずる感性は、私にとって、過去の郷愁か。はたまた、洗脳された観念か。
 マンションで快適な生活を送りながら思うのである。



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