多摩川と自然(その2)
どうも誤解されそうなので書いておく。私は自分では、自然がかなり好きなほうだと思う。海が好きだし、野山を歩くのも好きだ(登山とはいかないが)、畑仕事、草刈りも嫌いではない。自然のなかの労働で疲れるのは心地よいが、仕事での疲れは嫌なものである。
4〜5年前、”一本釣り”の漁師になりたくて、本気であちこち動き、情報を集めたことがある。漁業協同組合も方々訪ね回った。財産を処分し、1年分の生活費を捻出して、後半生は自然と向き合って、この世とおさらばしようと本気で考えていた。
しかし、結果的に処分した資産では借金の返済も全額出来ず、50才を過ぎて勤め人として新たに出発した。
で不幸か?全然そのようなことはない。武道も出来る、ホ−ムペ−ジを開いたおかげで、受信のみの人生から、僅かではあるが人様に発信できるようにもなった。また、あらたな人々との出会いもあった。何でこんなに自分は運が良いのだろうと、つくづく思っている。
蚊、蠅、百足は自分にとって敵かもしれないが、彼らは彼らに与えられた境涯の中で一所懸命に生きている。自分と対等の生物として。自分とはたまたま自然の中で、テリトリ−の争いをしている。本当は仲良くやりたいのだ。雑草とも共存したい、しかし、彼らは、色々な虫たちと連合軍を組んで、私の生活圏にどんどん進入してくるので排除しなければならなかった。
雑草という言葉で思い出すことがある。昭和天皇が皇居内を新聞記者と歩いていた時、記者が「皇居内にも雑草は多いのですね。」と感想を述べたところ、
陛下は「あの草は何々、あの草は何々・・・・と全ての草の名をあげられ、雑草という植物はありません。」と答えられたそうである。
このエピソ−ドに私は心を打たれた。陛下からみれば私はまさに雑草である。しかし、私にも名前がある。陛下は私に対しても、名前で呼びかけていただけそうな気がする。もうこれだけで、まいってしまった。
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