身 辺 雑 事

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 身体動作・被服・社会制度




(1)杖道をはじめるまで私は袴をはいたことがなかった。10年間坐禅を続けたが、その間どうしても変なこだわりがあり作務衣をきることが出来なかった。
 夏はTシャツ、冬はトレ−ニングウエア−で坐禅をした。しかし、杖道を始めると、稽古着と袴をすぐに購入、袴を穿くのは生まれて初めて、喜々として着ていた。稽古を続けると段々稽古着と袴が身についてくる、それにつれて技も身についてきた。被服を着こなす、被服が身に付くのも一つの過程をへて物になっていくことを痛感した。

(2)話は飛びます。
 昭和30年代、私の母の普段着は和服に割烹着だった。(普段着、外出着という言葉も廃れようとしている)友人の母親もそうだった。
 昭和30年代も終わりに近づくと、母は普段着としての着物をきなくなった。父も浴衣、丹前(ドテラ)をきなくなってしまった。私の知る限りでは、最後まで普段着として着物を着ていたのは義母だ、約15年前、昭和60年代初め頃まで着ていた。現在87才、全く着物を着ていない。
 先頃、その理由を聞いてみたところ、予期せぬ答が帰ってきた。(私にとってであり、世間一般ではあたりまえのことかも知れない)私は被服を機能性とファションからしか見ていなかったことを悟らされた。
 「着物(和服)をきるには、和裁が出来なくてはだめ、私は老いて和裁ができなくなったので着物をきれなくなった。」
 老いて和裁が出来なくなった時は、母親に替わりお嫁さんがその役をはたしたことだろう、最近では和裁どころか、着付けの出来る人も限られている。
 和服は文化であり、その基礎に日本の社会を支えていた家族制度があったわけである。現代においてその基盤は失われてしまった。再び蘇ることは無いであろう。 
 新しい社会制度のもとには新しい文化が生まれてくる。現に新しい日本人の文化は生まれ育っていると思う。若者の間では、洋服が借り物でなく確実に身に付いてきた。

(3)身体動作と機能性について(ナンバ)
 5〜6年前、日本経済新聞の文化欄に掲載されたいた記事に、日本人の歩き方の変化というのがあったことを覚えている。
 江戸時代までの日本人は「ナンバ」という歩き方をしていた。つまり歩く時、右足を前に出すとき右手を出し、左足を前に出すときは左手前に出すのだ。現代の歩き方は全く逆で右足を前に出すとき左手を出し、左足を出すときは右足を出すのだ。その様に変化したのは明治になってからであるという。
 当然、現代のようには走ることは出来ない。火事などの時は両手を揚げて走った。(古の絵巻物はそうなっている)
 歩く時、又、早足の時は、腰を落として「すり足」で進む、その歩き方から着物、草履が生まれた(逆かも知れない)、ようは「ナンバ」歩きは着物が着崩れもせず合理的だった。
 洋服や靴を履いて、すり足で進む「ナンバ」歩きは不合理。
 和服や草履を履いてのカカトからおろす現代の歩き方は不合理。
 「ナンバ」は武道の世界、能、日本舞踊の世界に細々と相続されていく文化遺産とならざるを得ないだろう。

(3)「ナンバ」歩きと武道について
 ここで、やっと武道が出てくる。香取神道流剣術、無外流居合兵道における、斬りつけは「ナンバ」である。(ただし、僅かな例外はある)
 太刀を持つと右手が前になる、よって切るのは右足を踏み込むことになり、すり足になる。
 空手道においても、基本の順突きは、足と同じ方向の手で突く。手足が逆になるのは、あくまでも逆突きである。しかし最近は、巻き藁、砂袋を突くとき逆突きのほうがやりやすいという人が多く、自然に突くと逆突きになってしまう。空手道も現代化しているのであろう。
 武道もまた文化である。文化は人間のいとなみのすべてに関わって来るものだと思う。しかも、それはつねに流動し、変化している。

(4)今は亡き、母が洗い張り用の板、竹ひご、をつかって浴衣を、和服をほどき、洗濯をし、縫い直している姿を思い出す。盥に洗濯板、かまどでの炊事、家事は専業主婦でなければこなせるものではなかった。着物に割烹着で忙しく立ち振る舞う、そういう母を心より尊敬していた。
 
 その時代はその時代の価値観があり、女性が不当に虐げられていたとも思わない。現代という時間、空間の位置からのみ評価するのは片手落ちだと思う。その時々、その場所場所で人間は精一杯に生きてきた。幸福を感じ、また不幸であった。「すべての歴史は現代史である」ということを言った碩学のことを思い出した。




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