〜ダイスケの部屋〜


 「武術はなんだ」 
 
 
 
 10月某日

下関に行き、某師範と雑談時に公案を一つ頂く。いや、勝手に貰ってきた。
それ以来、ずっと解答が得られずに考えている。
公案自体はここには書かない。書くことに意味は無いからである。

どの武術(武道と言うべきか・・)も第一義に人格形成を挙げる。
実際の術を使う事は人を殺傷しむる事であり、それ自体が現実問題許されない事である。
礼を重んじ、心身の鍛錬をし、人格を鍛える事が目的であり、相手を倒したり敵対したりするものではない、とどの団体も言っている。

しかし実際の所は、スポーツその他の集団となんら変わらないと感じる。
我が強く、自分を主張し、認めてもらいたがる。
弟子を囲い込む者、商売に勤しむ者、他所の悪口を言って相対的に自己の評価を上げようとする者、よりどりみどりである。
個々人の資質の問題ではあるが、それにしても悪い部分に目が行く事が多すぎる。


当然悪い事ばかりで無いし、良い事もたくさんある。しかし、武術を知らない人に全面的に、かつ無条件で薦められるかと言うとそれほど無邪気になれない。
武道自体を止めてしまった方、団体でのポジションを辞そうとしている方を引き止める有効な言葉も思いつかない。
自分が団体に戻ってきた(注1)のはたまたま人とのめぐり合わせが良かっただけではないだろうか。


武術と禅はよく合わせて語られることが多いが、禅の方がよほど良いと思う。
まともに坐禅した事が無い私でも、沢木興道老師の
「自分が自分を自分することである」
「坐禅が坐禅を坐禅する」
「坐禅してもなんにもならん。しかしこの何にもならん所が大事じゃ」
等という言葉は気に入るし、共感を覚える。
この「自分」や「坐禅」に「武術」を入れても違和感が無ければ良いのになぁ、等と思ってしまうのである。


結局、公案の解答は得られないままだ。多分、一貫堂六本木支部の仲間も解答は見出せないであろう。こんな事で良いんだろうか、とも考える。
周りに(生きる)希望を与えられるように、などとおこがましい事を考えずに、自分の術だけ練っていろという事か。分らない。

しかし、しょっぱなから偉そうな事を書いてしまった。反省反省。




注1) 私は杖道を8年ほど止めていました。
 
                                
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