〜ダイスケの部屋〜


 「アドバイスは勉強になる」 
 
 



12月某日

昔の神道夢想流は、師範以外は太刀持ちをしなかったそうだ。
また、理合なども(師範によるが)ほとんど教えなかったらしい。古流らしい
話だ。他所では今でもこういった教え方の所もあろう。

現代の、団体を作っている流派はそうはいかない。師範の数も限られているし、
何より、少数精鋭を作り出すのが目的ではない。まして、実戦で使うことも
無い。皆が限られた時間内で、出来る限りの稽古をするのが望ましい。


そうなってくると、初段、あるいは級位者でも太刀持ちをし、二、三段でも
指導らしき事をする破目になる。自分に自信がなくても、である。

元来教えたがりの性格の人はまだ良い。放っておいても指導を始める。
その反対側で、自分の稽古がしたい、指導なんか冗談じゃない、と言う人も
指導に借り出され、不満顔をしている。
この双方とも、個人的にはもったいないなぁ、と思う。


教えたがりの人は、多かれ少なかれ持論を強固に持っている場合が多い。
#ほとんどの場合、その持論の裏づけになっているものは、自身の体験では
#なく、受け売りだったりする。まぁ、これは仕方の無いところだろう。
しかし、持論を強固に持っているがゆえに、非常に良いアドバイスを
聞いていなかったり、反発を覚えたりする。良い言葉を貰っても、
自分に都合の良い部分だけピックアップして覚えていたり、引用したりする。

この手の人は、思考が柔軟になると、団体として非常に重宝することになる。


逆に指導をしたがらない人は、自分に自信が無い。これは実技なのか、
指導についてまわる責任感なのかは抜きにしてだ。
その双方共、自信が無い場合もある。

しかし、師範以外が指導する場合は、指導と言うよりはアドバイスに過ぎない。
少なくとも、そういうスタンスでいた方がいろいろな意味で良い。
しかも、アドバイスをする事で自分にとって良い事があるのだ。


と言うのも、自信が無い人が指導(教育と言っても良い)をする場合、その
心理的マイナス面をバックに、自分の知識を人に伝えやすく再構成する。
少なくとも自分の知識(誰に教わった、等含む)を整理し、伝えやすい言葉で
伝えようと努力し、術の本質を出来るだけつかもうとする。対象者が
異なるごとに、伝えやすい手法に変えたりもする。

知識は自己の学習成果を脳にインプットした物である。インプットは
楽しい。知識欲という奴だ。これは、詰め込む段階では無秩序な場合が
多い。系統だった指導を受けても、まぁ詰め込みやすい、程度の違いだ。

しかしながら、他人にアウトプットする時、ほとんどの場合整理され、
結果、自己の理解度が高まる。知識の密度が上がると言っても良い。
いわゆる、(密度の濃さに差はあるが)薄っぺらい言葉ではなくなるのだ。
トリヴィアや雑談、ユーモアの類を除いて、アウトプットは大概苦痛を伴う。
が、その人の知識面を強固にしてくれる。故に、各方面でもアウトプット
(会議、発表会、競技会の類)が行われるのだろう。


アドバイスをする事で、対象者から教わることも多々ある。知らない人の方が
より自然な反応を示すからだ。私はアドバイスをするとき、必ず反応を
確かめる。自分へのフィードバックが期待できるからである。
より下の段、級位の人を下げて見たり、強さを見せつけたりする感覚が
分らない。自分に責任がある機会損失という奴である。もったいない。

 
                                
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