「正論は文字通り正しいの?」
「ダイスケの部屋を読んだが、難しくてよく分らなかった。谷大先生の文章は
面白かった」とのご意見を頂いた。僕も谷大先生の方が面白いと思う。
少し反省して、ライトな文章でも書いてみようと思ったが、題材がそう
転がっている訳でもない。毎度の如く、思いついたものを書いてみる。
ライトな文章は、同じく思いついた時に書くことにする。
正論が隅に追いやられず、正論として通るようになって来ているように感じる。
声が大きい人の意見が必ずしも通らなくなり、建前無しの本音をそのまま
発言しても「世間知らずの青二才が」みたいな扱いを受けない。裏金や
裏帳簿などの二重構造を暴いたり、出来るだけ排そうとしている。
大多数の意見だけでなく、少数の意見も取り入れようとする。
悪いことは悪いと言って良いわけで、分りやすい世の中になってきたと思う。
こういった流れは、武術団体においても見られるように感じている。
個々人の結びつきはともかく、できるだけ平均に、偏りが無い様に、特定の
恩恵を受ける人も、負担を感じる人もないように、だ。まぁ、利益を
誰も受けていない団体においても会費を貰っていたりする以上、こう言った
配慮は当然必要だと思う。「透明性」というキーワードが特に使われる。
正論を通せばみんな幸せに、楽に過ごせるか。これは必ずしもそうではない。
グレーゾーンやなあなあ、小さな不平不満が吸収していた部分を逐一出して
いくと分るが、偏らないようにするには、偏りを解消するために全ての面で
過剰なリソース、余力が必要なのである。今までは余力が無かったので
やっていなかっただけ、という事が思ったより多い。
個々人の正論が全体の正論ではない点や、過去の正論が現在、未来の正論では
無い等、問題を複雑化させる要素を内在している場合も多々ある。
政治などで、余力が無いのに正論を突きつけられて遅延、遅滞が発生する
なんてことが散見される。今までなんでやっていなかったんだとか、お前らの
仕事だろう、なんて言うのは正論であるが、では正論を通すとすべてが丸く
収まるのだろうか。
誰かが余力部分を負担しない限り、丸く収まる事は無い。
#かと言って、問題解決の為に全員が均等に我慢する、といった方法論は
#力技であり、あまり美しい解決法ではないとも思う
正論に折中案は通らないし、正論を出した側は通らなければそれを不服、
負担に思う。また、ほとんどの場合で正論を通すためのリソース(および、
リソースを捻出するためのアイディア等)は、提案した側の負担、思考する
範疇ではないらしい。
#正論を言うとリソースが必要だから言うべきではない、と言う事では無い
武術団体においては、指導者がこの負担を背負う部分だろう。
指導者以外が暫定的にでも処理に使われると、ピラミッドが崩壊して、特に
対外的に見るも無残な状態になる事がある。修復は困難で、時間がかかる。
では、指導者が全て皆に望まれる通り動けるか。これは非常に難しいと思う。
例えば、「教わりたいと感じている人、やる気がある人にだけ教える。
差別はしてしかるべしだし、文句があるなら辞める」等と考える人が
出てきてもおかしくない。
#単純に教えたい人に教えて、他の人には教えない、という訳ではない
差別をしない事で発生するリソース不足で、やる気がある人に影響を及ぼす
くらいなら、堂々と差別をする、との英断である。
実際に僕が明言をするかと言われると微妙だが、こう言った事を聞いたと
したら、この思考自体は支持する。個人レベルの差別は、団体としての(黙認
したりしている)差別とは分けるべきである、と考えるからだ。
正論を通そうとする団体には、こういった個々人を許容する余力が必要だと
言うことだろう。必要なリソース、キャパシティだらけである。
この手の問題を討論している際に、(筋が違っていない限り)改まって
意見を言うような事は無いし、反論をする気もない。
あえて私見を言うならば、今まで聞いた事が無い少数の正論を通すことで
大多数のリソースを消費するような事は、僕だったらしないのになぁ、
位のものだ。正論を通さないでも問題をクリアするキャパシティを持つ事が
理想と言える。
本当に求めているなら、既にそれが一部分でも聞こえてきたり、実施
されていないとおかしいと考えるからである。
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