〜ダイスケの部屋〜


 「下関の思い出(その2)」 
 
 




塩川先生の道場では、様々な資料を見せていただいた。巻物、古い手紙、
様々な写真、文献など。感激した。また、道場、先生、先生の奥さんなど、
様々な要素が渾然一体で雰囲気を出している。何の、と言われると
困るが本場に来れたなぁ、という感じである。今でも印象は変わらないし、
何か困ったり迷っていたりすると下関に行かねば、と思ったりする。

念願であった受け技も、先生にやっていただいた。
まずは腕の筋肉を触らせてくれる。柔らかいを通り越して、ブヨブヨに
感じた。いくら力を抜いているとは言え、鍛えている人とは根本的に
違う硬さだ。かと言って鍛えていない人とも違う。
#(当時)30年近くまともに鍛えていないと言うのだ。こうなっても
#不思議はないのだが、これで最強と言うのが理解の範疇を超えている

突いた手を受け技で払われた瞬間、噂に聞いていた鈍痛が走る。
先生からすると、愛弟子の連れてきた孫弟子であるし、ものすごく手を
抜いてくれたのだと今では思うが、衝撃の凄かったこと。
表面に痣は無いが、数ヶ月は腕の芯が痛かったように記憶している。


またその後、先生の車で、運転もしていただいて市内観光である。
光栄で、非常にありがたいのだが、いかんせん東京からノンストップで
走ってきた身である。眠くてたまらない。

それでも起きていられたのは、ひとえに先生の運転のおかげである。
もう時効だし、谷大先生も書いているので書くが、先生は車に乗ると
とにかく飛ばす。例えば、すれ違いがギリギリの曲がりくねった20Km/h
制限の道で、40Km/hくらいで飛ばすのである。
メーターを見ていると、大体制限速度の倍くらいが先生の速度であった。
#くどいようだが、あくまでも当時の話である。

荒い運転でも無いし、生命の危機を感じたことは一度も無い。
しかし、ついメーターを見てしまう。そんな思い出である。


大会前日の飲み屋で、藤代さん等と話し込み、仲良くなったのも思い出
である。飲み屋の場所はうろ覚えなのだが、あの時食べた、肝が苦くない
サザエの味は忘れられない。Kさん、Sさんあたりの当時の高段者と
親しく話が出来るようになったのも、この頃からだった覚えがある。

例によって大会自体の記憶はほとんど無い。大会後、今度は山陰側の
下道を、数名で観光がてらゆっくり帰ってきたのを覚えている。
#余談だが、山陰側の海岸を一人で歩いていると拉致されるぞ、なんて冗談を
#言われたのを不意に思い出した。当時から話題にはなっていたのだろう


その後、東京で居合を始めた。
居合刀を買ったは良いが、杖の打太刀通りに振るだけではダメなように
感じたのだ。吉田君も同じような感想を持っていたように思う。
今思えば、杖道の打太刀のみを居合刀で練習していたわけで、行き詰る
のも当然である。もっとも、片手でも刃筋を通す練習などにはなっていた
わけで、まるっきり無駄になっているわけではない。

そこで、当時4〜5名入っていた役者の中でも、特に仲の良かった和さん
(現不動智 古武道の会 代表)なんかと一緒に、Nさんに居合を教わる事に
した。杖の他のメンバーにも、太刀に自信が無い人は居た様で、すぐに
20名近くの仲間が集まった。会派になったのは、この直後であった。
会の名前は松原哲明和尚(龍源寺住職)(あれ?泰道和尚かも?(^^;)に
つけて頂いたと記憶している。





 
                                
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