〜ダイスケの部屋〜


 「天 才」 
 
 




天才が目の前に居たら、その幸運を感謝すべきだ(誰に?)。
ほとんどの場合、探しても見つかるものではない。また、その手の噂も
当てにはならない。判断には、自身の見る(観る?)目も必要である。
また経験上(武術において)天才の動きはすごくは見えない事が多い。
すぐ横で見ていてすら、分らない。技を食らって初めて分るものだ。

天才に関しては、妄信するのではなく、特定の範囲でのみ評価すべき
である。天才だからと言ってずっと天才とは限らないし、全てにおいて
天才な訳でも無い。
#瞬間的な天才、極めて局所的な天才もありうる
##「人」に心酔するのと、妄信するのは違う
いかに天才と言えども、本物になるには努力が必要であったりする。
努力をしない場合はある所で止まったり、年齢に応じて衰えていったり
する。ただし、必要な努力の内容が常人と一緒とは限らない。


やってみなくては分からない、と言う人は天才か無謀な常人かどちらかだ。
天才は本気でそう思っているが、結果はほぼ一定である。
無謀な場合も同じくほぼ一定であるが、結果は天才と逆になる。
#天才は努力しなくても結果が得られてしまうわけで、根性論を中心に
#据えている人などが目の当たりにすると、やりにくいであろう

秀才は自分の課題、弱点を認識しているため、基本的にその手の試行を
する必要は無い。やってみるまでもなく、結果を予測済みなのである。
その予測は安全側である可能性が高く、結果が間違いなく出る事が多い。

また、自分が普通だと認識している人は間違いなく普通、とは限らない。
秀才の一部は自分の弱点を過大評価するが故に、他の人から見て謙遜
しすぎている場合があるからである。自分を普通だと言う秀才はそこそこの
人数存在するように観察される。


天才は常に(環境、状況に即応して)変化する。よって、周りの期待に
応えるとは限らない。正反対の結果が出ることすらある。
秀才も努力により、徐々に変化していく。十年単位で見た場合、相当に
言葉も動きも思想も変わっていく。本人には変わった意識はあまりない。

周りの期待に応えないからといって、天才を否定してはもったいない。
天才の動きは目に焼き付けるべきである。天才が居なくなったら(次に
天才が出現するまで)動きを再現できる人が、ほとんど期待できない
からである。
#天才の動きに比べたら、近似の動きには意味が無かったりする
天才の動きは、ほとんどの場合本質的であり、合理的である。
ただ、言葉にしづらかったり、再現しづらかったり、最悪本人以外
誰にも出来なかったりする。それだけ常人の動きには無駄が多いという事だ。


天才や秀才の一部は、極めてニュートラルであろうとする。
ニュートラルが故に偏ることが無いため、(自ら)周りに干渉しなくなる。
偏りをよしと出来ないのだから、仕方の無い事である。
影響力はあっても孤独で、それゆえに他と比べるまでもなく綺麗である。
比べて、無邪気で、仲間も多い天才は、どのような環境でも幸せにみえる。

再度書くが、天才が目の前に居るなら、それは運やめぐり合わせの良さ。
見聞きし、体験することが出来た幸運に感謝。





 
                                
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