[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
「天 才」 天才が目の前に居たら、その幸運を感謝すべきだ(誰に?)。 ほとんどの場合、探しても見つかるものではない。また、その手の噂も 当てにはならない。判断には、自身の見る(観る?)目も必要である。 また経験上(武術において)天才の動きはすごくは見えない事が多い。 すぐ横で見ていてすら、分らない。技を食らって初めて分るものだ。 天才に関しては、妄信するのではなく、特定の範囲でのみ評価すべき である。天才だからと言ってずっと天才とは限らないし、全てにおいて 天才な訳でも無い。 #瞬間的な天才、極めて局所的な天才もありうる ##「人」に心酔するのと、妄信するのは違う いかに天才と言えども、本物になるには努力が必要であったりする。 努力をしない場合はある所で止まったり、年齢に応じて衰えていったり する。ただし、必要な努力の内容が常人と一緒とは限らない。 やってみなくては分からない、と言う人は天才か無謀な常人かどちらかだ。 天才は本気でそう思っているが、結果はほぼ一定である。 無謀な場合も同じくほぼ一定であるが、結果は天才と逆になる。 #天才は努力しなくても結果が得られてしまうわけで、根性論を中心に #据えている人などが目の当たりにすると、やりにくいであろう 秀才は自分の課題、弱点を認識しているため、基本的にその手の試行を する必要は無い。やってみるまでもなく、結果を予測済みなのである。 その予測は安全側である可能性が高く、結果が間違いなく出る事が多い。 また、自分が普通だと認識している人は間違いなく普通、とは限らない。 秀才の一部は自分の弱点を過大評価するが故に、他の人から見て謙遜 しすぎている場合があるからである。自分を普通だと言う秀才はそこそこの 人数存在するように観察される。 天才は常に(環境、状況に即応して)変化する。よって、周りの期待に 応えるとは限らない。正反対の結果が出ることすらある。 秀才も努力により、徐々に変化していく。十年単位で見た場合、相当に 言葉も動きも思想も変わっていく。本人には変わった意識はあまりない。 周りの期待に応えないからといって、天才を否定してはもったいない。 天才の動きは目に焼き付けるべきである。天才が居なくなったら(次に 天才が出現するまで)動きを再現できる人が、ほとんど期待できない からである。 #天才の動きに比べたら、近似の動きには意味が無かったりする 天才の動きは、ほとんどの場合本質的であり、合理的である。 ただ、言葉にしづらかったり、再現しづらかったり、最悪本人以外 誰にも出来なかったりする。それだけ常人の動きには無駄が多いという事だ。 天才や秀才の一部は、極めてニュートラルであろうとする。 ニュートラルが故に偏ることが無いため、(自ら)周りに干渉しなくなる。 偏りをよしと出来ないのだから、仕方の無い事である。 影響力はあっても孤独で、それゆえに他と比べるまでもなく綺麗である。 比べて、無邪気で、仲間も多い天才は、どのような環境でも幸せにみえる。 再度書くが、天才が目の前に居るなら、それは運やめぐり合わせの良さ。 見聞きし、体験することが出来た幸運に感謝。 次へ
目次へ