「礼法って難しい」
礼法について考える機会が数回重なったため、少し考察してみる。
とは言っても、礼記や三議一統、作法故実等の例を挙げるまでもなく歴史的
にも複雑で、簡単にまとめきれる物ではない。表面を流すだけである。
#過去の権力者、貴人ですら礼法に対して自信が無く、学者などにまとめ
#させて、ある程度のプロトコルを作って所作の根拠としようとしていた
#のは、かわいいと言うか、心配しすぎる必要はないんだな、と感じる。
権力者が文章でまとめさせた事が何度もあるということは、それだけ家々で
礼法は違ったと言うこと。違いがあっても所作に意味があり、相手に
対する気遣いが表れていれば、すべて礼法と言えるので難しいところだ。
文章内の単語の定義を(固執している訳ではないが)してみる。
礼法の定義は、(状況、貴人、神仏等を含む)他者を気遣うという気持ちを
的確に伝えるため、所作として形式化した方法論、としておく。
#ただ単にプロトコルをこなしているのは気持ちが無いため、礼法にかなって
#いるとは言えない。ただし、外見上はそれが分らない。
また、言葉としてほぼ同じ意味で、ややこじつけに感じるかもしれないが
虚礼:形だけで心が伴っていない礼。
失礼:気持ちが表れていない礼。
無礼:礼に関して何も考えていない状態。
非礼:礼儀にそむくこと。
くらいの定義で納得がいく(僕だけか?)所か。
古流武術の礼法は、定義が難しい。例えば、正座が文字通り「正」とされた
のは江戸時代の事だ。装束や環境(公家か武家か等)にもよるが、楽座、
安座、胡床坐居などが正とされていた時代に作られた流派の場合、(現代に
至っては)新旧どちらに合わせても礼は失していない気がする。
そもそも一つに決めて、他は間違いとするのには無理があるのだろう。
#現に、多くの流派で礼法を変えたり、混在させたりしている形跡がある
ただし、公家の礼法は(形式化された宮中での儀礼を除いて)割と自由闊達で
あったのに対し、武家の礼法は幕藩体制を固めるために必要以上に固定化
された感がある。武術の礼法は、武家の礼法から来ている事に(一部の例外を
除いて)疑いの余地は無い。したがって、時代に合わせて礼法を変えざるを
得ない状況になったこともあるのだろう。
しかし、厳密に定義を考えた場合、礼法を変えることで虚礼になってしまう
事が考えられる。単なるプロトコルとなってしまう訳だ。そういった意味で
法度(ルール)は、しばしば礼法に適わない場合がある。強制を旨としている
場合は特にそうだ。強制されたら、礼が礼でなくなる事は容易に想像できる。
また、怪我や病気で困難なのにも関わらず、無理に決められた礼法をしようと
しているのは、見ていてかわいそうな時がある。(性格の問題などもあるが)
遠慮して、失礼を詫びたりして楽な体制になることも出来ない。
決める事で万人に分りやすくはなるが、その影で出てくる弊害もある。
例えば、礼を知らない人に一例として指導するのは当然ありだと思う。
無意識で違うことをやっていたり、慣習でやっていても理由がなくなって
しまっている場合(虚礼という奴か)に指摘するのもありだろう。
複数の礼法が入り混じっている場合、混乱を未然に防ぐために統一見解を
挙げるのも必要だろう。
しかし、決まった礼法から外れているからと言って不快に思ったり、
礼法を押し付けたり、失礼だと否定したりするのはおかしい。
否定自体が、他者を気遣うという根本から外れる行為である。また、
仮に否定した本人はそれが出来ていても、形だけであれば虚礼である。
虚礼も礼のうち、とは言わないだろう。幕藩体制の時のような過度の
締め付けは、現代においては必要ないことがほとんどである。
「神前に対する礼は宗教の問題でできない」などとの主張が想定でき、
柔軟に対応できる準備も必要である。「なら習いに来るな」などの
暴論は、礼を強制するのと同様に非礼である。
礼を失さない礼法の決め方は、せいぜい「意味があってやっている礼は
たとえ自分の礼と違っていても黙認。意味が無くやっていたり、失礼、無礼で
あればおだやかに指摘」程度のもの。認識が難しい。かと言って、指摘を
しないで放置するのも、他者を気遣っていないわけで失礼である。
この文章自体が無礼であるって?。そりゃ失礼。
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