〜ダイスケの部屋〜


 「形武道と慣れ」 
 
 



自分で測定したわけではないし、都合のいい作り話かもしれないが、
こういう話がある。

坐禅をしている人の脳波を測定し、定期的に鈴を鳴らす。当然、鳴ると
同時に脳波が乱れる。ところが、何回か続けると脳波が乱れなくなっていく。
慣れてしまったわけだ。
ところが、修行を重ねた僧侶に同じ実験をすると、鈴が鳴るごとに毎回
脳波が乱れるとの事。これが「無心」だと言う。

漠然と考えている無心と、少し印象が違わないだろうか。少なくとも僕は、
「悟り」なんかと同じく、「無心」を大分違う風に捉えていた。


例えば、武道館のような大きな会場で演武をしたとする。特に日本武道館
のような、武道家あこがれの場であれば顕著だが、初回は非常に緊張
する。しかし、演武に失敗したとしても、非常に感動すると思う。
極端に言うと、あの場に立っただけで、ワクワクする。

何回か体験し、そのうち非常に難しい形なんかに成功したとする。
失敗するより成功する方が喜ばしいし、感動もするかと思いきや、
初回の演武の感動には及ばない。慣れてしまっているのである。

受験勉強なんかだと、本番であがらないように、模試なんかで擬似的に
状況を体験し、実力が存分に出せるようにする。この努力は必要だろう。
しかし、それ以外の、特に趣味的なものの場合、これはつまらないのでは
ないだろうか。毎回ワクワク出来たほうが楽しい気がする。
極論を言うと、慣れて落ち着いていると言うのは、状況に構えてしまって、
感性が枯れてしまっていると言えるかも知れない。


形武道に似たことがある。様々な理由から、形(一定のパターン化された
連続動作)と言うものがあるのだが、徐々に慣れてきてしまう。

形の範囲外での動きは、形を習得すると言う意味では邪魔で、不快に
思う人もいる。決められた事をずっとやる事に意義を見出したりする。
したがって、形の習得にかなりの年数を要したりする場合がある。

しかし、本人の意識はともかく、形の習得と言うものは本来それほど
時間を要さないものだ。戦いの時代に、「まだ形を習得していないので
実戦には出られません」なんて悠長な事は言っていられないのである。
時間を要するようになったのは、実戦から遠のいた、平和な時代になって
からではないかと推測できる。
現に奥が深い技と言うのは存在するので、「上には上が」的な話もあるが、
これも一部の天才を除いて、平和な時代の産物かも知れない。

ある程度形が出来始めた場合、形に無い動きをするのが一つの方法論
としてある。1パターンにしか対応出来なかった動きを、いくつもの
パターンに対応できるように難易度を上げ、慣れの状況を無くすための
ものだ。しかしこれすら、そのパターンを覚えて行ってしまい、慣れて
きてしまう人が多い。

様々な形を覚え、その応用のパターンをいっぱい知っている人が無敵で
あるかと言うと、そんな事はない。むしろ、パターン外の攻撃や、
体験していない得物での攻撃にやられてしまう事が多い。


では、どんな人が強いか。私の知っている範囲の先生に言えることだが、
往々にして細かい事を気にしなかったり、忘れてしまっている事が多い。
下手をすると、形自体を忘れてしまっていたりする。
しかし、攻撃に瞬間的に反応する。しかも、合理的な反応である。
反応後に説明を求めた場合、説明できる先生も説明できない先生もいるが、
どちらも(行動時には)実は何も考えていない。パターンから対応策を
引き出した訳でもない。形にとらわれていないのだ。

「いいかげん」がキーワードである。「良い加減」となり、慣れなんか
を超越しているのだ。いろいろな事を新鮮に受け入れることが出来る。
目指しにくいが、理想の状態と言える。






 
                                
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