「問題は必ず解けるか」
塾で生徒に教えていた当時、数学が苦手な生徒には必ず
「数学なんて、難しくて厳格そうにいばりくさってる感じがするかも
しれないけど、所詮、物理現象を解くための道具にすぎない。高尚な
もんでもない。気楽に反復練習していれば、自転車に乗れるように
なるみたいに、自然に出来るようになるよ。」と言った趣旨の事を
言っていた。
厳密に言えば数学はそれだけではないし、高校生までの子に上記の
因果関係を説明しつくすのは難しい。苦手な意識を減らすための、
単なる方便だったと感じる。
それでも、生徒たちには割と好評で、苦手意識も無くなっていく
生徒が多かったように思う。
高校(場合によっては大学)までの勉強と呼ばれる行為は、ほとんど
単なる反復練習であり、狭義の勉強では無いと感じる。
#ただし、この中にも自分の工夫や、ありきたりな解法を飛び越え
#ようと努力するものなどは、勉強に相当すると思う
道具を、使い方も含めて認識し、使いこなすためのトレーニングを
していると言って良い。ただし、道具にも色々ある。専用の、1つの
ことしか出来ないように設計されたものもあれば、工夫次第で色々な
事に使えるものなんかもある。
2つの違いは、ほとんどの場合、出力時の精度の差である。
専用のものを他のものに使っても、精度が得られなかったり、最悪
壊れてしまったりする。これは、学習にはなるが工夫ではない。
道具の使い方のトレーニングなので、与えられた課題には基本的に
解決法が必ずある。「解なし」「不定」なんかも稀にあるが、
定期テストや入試ではほとんど出てこない。論理的に導かれた
「解なし」などには意味があると思うが、批判の声があるのだろう。
#「解けない問題を作るなんて」と言う声が聞こえてくる(笑)
道具を使えるようになり、やっと興味深い勉強に入るのだが、
その時点では(ほとんどの人が)勉強がしたくなくなっている。反復練習の
面白くなさは、皆分るだろう。面白く感じている人もいるだろうが、
赤ん坊のようなまっさらな状態を除いて、本質的に反復練習自体を
面白がっているわけではないと推測される。
問題は必ず解が出ると信じている人は、様々な努力をする。
これ自体は非常に良いことだと思う。また、この努力自体を評価する
人も多い。
#稀に、努力をしている自分が好き、なんて感じの人も。。
ただし、「解なし」の存在を認識した上で努力するのか、はたまた
「必ず真理はある」みたいな思い込みで努力するのかで話は違う。
武術に関して言えば、言葉や動きで教えてしまうのは簡単だが、あえて
教えない人もいる。努力及び、解を導き出したときの喜びを評価している
人だろう。確たるものがあれば、一つの方法論だ。
個人的には、きちんと伝わり、自分より強い弟子が出てくるカリキュラム
であれば、どのような方法論でも良いと思う。現代において、弟子に
抜かれても殺されることは無い。せいぜいプライドが傷つく程度である。
プライドの方が大事、なんて人も居るが、平和な時代になった証拠だろう。
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