「形はメディアかコンテンツか」
マーシャル・マクルーハンの「メディア論」によると、メディア=
コンテンツ=メッセージとなってしまうため分離が難しい。とりあえず
単純化し、メディア=媒体、コンテンツ=情報の内容、と定義しておく。
コンテンツはクリエイタがいて、特定の表現を、特定の手段で伝達
するものだ。人に伝える意思があるといって良い。
古武道の場合、大概クリエイタは一人だが、伝達手段が古かったり、直接
的でなかったり、人と言うフィルタを何度も通すが故に、表現の真偽に
関して信頼性が低い。少なく見積もっても、細部は変化、変質して
しまっている可能性が高い。
#変化=悪ではない。伝統=不変だとすれば、時代などの変化に対応
#できず、価値を失ったり、失伝したりする可能性が高い
伝達手段であったはずの人がクリエイタになってしまう場合も多い。
また、クリエイタが複数居る場合、内容は一緒でも表現技術が違うために、
見かけ上別のものになってしまう場合がある。個々に尊重しあえばよいの
だが、争いの原因になってしまう事もある。ほとんどの場合、クリエイタが
自身をクリエイタと認識せず、単なる伝達手段だと認識しているが故の
争いだと(少なくとも表面上は)思われる。
#単純に言うと、「○○先生からこう教わった」と言う類
形自体がメディアである場合、コンテンツは別にあるということだ。
口伝、秘伝などがこれにあたる場合もあるだろう。
メディア自体の変化は、コンテンツを内包出来る範囲内であれば許容
されると推測される。ただし、実際にはコンテンツが無視されたり、
コンテンツを変質させる意図でメディアを変化させる事が散見される。
また、形自体の実戦性をテストする必要はない。媒体の価値をいくら
証明したところで、内容物の価値の証明にはならないからである。
形自体がコンテンツの場合、外部に漏らしたくないと言うのもわかる。
コンテンツを研究されてしまえば、対策が練られる可能性があった
時代の事は容易に想像がつく。必勝でなければ殺されるかもしれない。
コンテンツ自体の変更は、多かれ少なかれ自己流への道である。これは
悪い意味ではなく、ブランド(流派名)なんぞにこだわらずに、新しい
コンテンツへの道を進めば良いのだ。
また、形自体の実戦性のテストは必要になる場合がある。流派がある以上、
優劣を比較する可能性があるからだ。また、テストをする事で、自身の
段階を確認する事も出来るかもしれない。しかし一方で、テストをする=
師伝を疑ってかかっている、と言えなくも無い。
Try and Errorは技法の一つではあるが、師に習う姿勢としては、極めて
好ましく受け入れられないと推測される。
人の価値の本質とは、意志(の高さ)である。状況によっては意地の強さと
言い換えても良い場合もある。意志が低い側から見ると、ただ尊敬する
しかない。
ただし、価値を評価するに当っては、産み出されたものの量や質でしか
判断できない。意志なのか、言葉だけなのかの判断が出来ないからである。
ここで重要になるのが、メディアであり、コンテンツである。
志は次代に受け継ぐ事が出来るかもしれない。産み出されたものは、一見
同様に受け継ぐ事が出来るように見えるが、思考にせよ物質にせよ、志が
なければ受け継がれたとは言えない。単なる譲渡である。
伝統に最も重要なのは、メディア、コンテンツ、ブランドといったものでは
ないのかもしれない。志を持つものに頑張ってもらうしかない。
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