エッセイ<随筆>




 ペペの店<1>

 


 その店の名は、確かマリオと云った思う。ママはかなり年輩で、二十歳過ぎの息子と二人暮らしだった。
 スナックではあるが、騒々しいカラオケなぞは置いていない。
 静かに会話を楽しむ大人の店という雰囲気だ。 
 その日私は、仕事帰りに、フッと忘れ物をしたような気持ちになり、一人で店のドアを開けた。
 「谷さん、いらっしゃい」
 ママがそう言った。若い女の子が、すぐにおしぼりを持ってきた。
 いつもの、光景である。他に客は一人きりだ。
 一人で飲みに来る雰囲気の店だった。

 「谷さん、紹介するわね。あの隅に座っている人、遠洋漁業の船員さんなの、きっと谷さんと話が合うと思うわ」
 「へー、そうかい」
 ママは、私のことは皆わかると言いたげである。
 決して間違っているとは思わないが、果たしてどうだろうか。
 チラッと横目で見ると、四十歳前の何処か暗い雰囲気を漂わせた男だった。
 「紹介するわ、こちら谷さん。谷さん、こちらは木村さんと仰って、船員さん。明後日には、アフリカへ行かれるのよ」
 ママはどうでも話をさせたいらしい。
 「アフリカのどちらですか?」
 私は、そつなく話しかけた。
 「カナリア諸島です。ご存じですか」
 木村さんは、ぼそりと言った。
 カナリア諸島! これは、会話が弾むぞ。
 「遠洋漁業の船員さんだそうですね、だったらラスパルマスですね?」
 と、私が言うと、木村さんの眼の色が変わった。
 「えッ、ご存じですか」
 「ええ、昔の話になりますが、グランカナリアには、少し滞在したことがあります」
 グランカナリアと云う地名をあえて私は出した。この言葉を知る者には、ある種の連帯感が湧くことを十分承知のうえで。
 それからは、十年来の旧知のように話が弾んだ。
 そして、私はここぞとばかりに、決定的な一言を発した。
 「ぺぺの店、ご存じですか? ぺぺは元気にしてるかな・・・・・」
 木村さんは吃驚して私を見、ママに叫んだ。
 「ママー! こんなことってあるのか! 信じられないよ。ここで、こんな人に会えるなんて」 

 ラテン民族特有の雰囲気をもち、美丈夫だったペペも最近は歳を取り、店に顔を出すのも週に一〜二回らしい。
 漁業基地ラスパルマスに居住した日本人で、ペペの世話になったことのない人はまず稀であろう。
 彼は、自由貿易港ラスパルマスで、土産物、雑貨、貴金属を扱う商人である。
 その傍ら質屋の様なことをやっていた。カメラ、時計等を担保に金を貸すのだ。金を使い果たした船員が、ぺぺに頼んで、一夜の酒代、女代を借りるのだった。
 一方、船員の世話を本当によく見ていた。飲んで暴れた船員を貰い下げに留置所に行くことも再三だったらしい。
 私も、当時、フランコ独裁体制下にあったスペインにおける、特殊警察に対する注意を受けた。
 「エナメルの帽子を被った男を、見ることがあるだろ。彼奴らは危険だ、絶対に逆らうな!」
 あらゆる情報は、ぺぺに聞けば分かった。
 それに比べて、日本領事館のお粗末なこと・・・・・。
 ラスパルマスに住んだ日本人は、多かれ少なかれ、何かと彼の世話になっているはずである。

 スペインのカジスを出た船が、カナリア諸島に着くには、四十八時間の船旅を必要とする。
 一番安い船底の、六人部屋のベットの下段に、私は身を横たえていた。
 大西洋は比較的荒れていた。ローリング、ピッチングが激しく、物に掴まらないと歩けない。
 船にはあまり強くない私だが、緊張のせいか、船旅の間、酔うことは一度もなかった。
 ドヤドヤ音がして、同室の五人が帰ってきた。
 ボスのミゲールが私に声を掛けた。
 「谷、甲板に出て来いよ。気持ちがいいぞ」
 スペイン語と片言の英語混じりの言葉だった。両方とも解さない私であるが、神経を集中すれば理解できるものである。 
 リュックに寝袋を担いだ私は、『心頭滅却すれば、意自ずから通ず』と云う言葉だけを頼りに日本を発ったのだ。
 「今、動いたら気持ちが悪くなりそうだ。海が凪いだら出ていくよ」
 「谷さん、船に弱いの?」
 サンドラが心配そうに云ってくれる。
 どういう訳か、五人の内一人が女性だ。しかも、グラマーな美人ときている。
 最初はミゲールの彼女かと思ったのだが、どうでもそうでは無いらしい。サンタクルスデ・テネリフェ島に、働きに行くらしいが、乏しい私の会話力ではその程度しか聞き出せなかった。
 初対面の時から、ミゲールは私に好意を持ってくれた。彼の厳つい感じは、昔のテレビドラマ、「コンバット」のサンダース軍曹によく似た風貌だった。
 ボス、ミゲールはリーダーとしての指導力は抜群のように見えた。他の四人が、信頼し安心しきっているのが私にも良くわかる。
サンドラが、トランプを持ち出してきた。
 ミゲールが仕方ないなという顔をし、
 「集まれ!」
 とでも言ったらしい。男どもが自分のベットからゴソゴソ降りてきて、私のベットに集まった。
 ゲームはポーカーだった。
サンドラが親の時、札を切れとトランプを私に渡そうとした。手が触れた。
 彼女はもう一方の手を、私の手の甲に乗せると意味ありげに微笑んだ。
 斜め上から見えた胸の谷間が、眩しかった。
 すべてを計算ずくに、私をからかっているのだ。
 ミゲールは仕方ない奴だと、苦笑いをしていた。
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