エッセイ<随筆>




 よれよれ三人旅

 


 
 プロローグ

 街灯の弱い光が小雨に反射する。雨のそぼ降る中を私は、傘を差して浜松町から竹芝桟橋まで歩いていた。大きなリュックを背負い、足下は編み上げのブーツに固めている。時代がかった言い方をすれば、半長靴と言えば分かって頂けるだろうか? (何! よけいに分からんって!)
 深夜十一時半過ぎの道路は人影も見えず、車の往来も疎らだった。無理もない話だ、幹線道路からは外れている。道路の行く先は竹芝桟橋だ。伊豆七島行きの最終連絡船はだいぶ前に出航している状況であった。
 この時間にこの風体で、こんな所を歩くのは明らかに不審人物である。姿を見た人があったとしようか、まず歩く目的に見当が付かないはずだ。
 私は断じて不審人物ではないが、少し変な男ではあった。


「太平洋から日本海まで歩いてみないか?」
 前後の脈絡もなく、突然、新宿のバーのカウンターでこう言い出したのは、マサさんだった。座ってまもなく、まだあまり水割りを飲んでいないときである。
「えっ、何? それ?」
 私は、返事に窮する。
「歩いて直江津まで行こう。日本縦断徒歩旅行はどうだ」
 マサさんはたたみ掛ける。
「フォッサマグナか? あそこじゃ翡翠が取れるらしいぞ」
 ミチさんが話しの方向を変える。意図的に面白がってこれをやるから、ややこしい。
「そりゃ糸魚川でしょう。直江津は少し東側だよ」
 私はいとも簡単に、ミチさんに乗せられてしまう。
「そうか…惜しいな。でも近くだから無いとは言えまい。おいテル、翡翠はデパートでどの位するんだ? 瑪瑙よりも高いのか?」
「そりゃ断然、翡翠が高いに決まっている。中国では……そういう話しじゃないでしょ!歩いて日本海まで行かないかと、マサさんが言ったんだ」
 私はハタと気づいて、話しを戻した。ミチさんはニヤニヤ笑っている。真面目にミチさんの話に乗ってしまうと、何処にいくか分かったものじゃない。

「今の世の中、歩いて旅行する奴なんていやしない…歩けば、絶対面白い発見があるはずだ…昔はみんな歩いて旅をしていた。馬頭観音、道祖神…そして何といっても、自然と親しめる。学生が暇に任せてやるのとは訳が違う。我々、堅気の社会人が休暇を利用して、休みごとに少しずつ歩くんだ。方法は…」
 マサさんは、企画を温めていたらしく細かい説明を始めた。ミチさんと私も彼の説明に引き込まれ、次第に興奮してくる。水割りを飲むスピードが上がる。ミチさんはメモを取り始めた。彼にはこういう細かいところもある。むろん実行に移すことに異議の出よう筈がない。その場で計画実現の為の役割分担が決まる。アルコールの勢いを借りて話しはどんどん進み膨らむ。後で考えると、その時の計画で巧くいったものは、ほとんど皆無というありさま、今から30年以上前の、昭和50年3月のことであった。

 ミチさんは三十六歳、会社の人事課長。マサさんは三十五歳、弁護士。そして、私ことテルは二十六歳の平社員であった。この壮挙(暴挙?)を、後に、“課長、弁護士、平社員のよれよれ三人旅”と名付けたのはM新聞社会部のI記者であった。
今、このエッセイを書いているのは、こまめなミチさんが、克明に記録を取っていたおかげである。彼の快い了解のもと資料を使わせて貰っている。

 ここで、少しこの暴挙の背景を説明してみよう。
 当時から遡ること三年前の昭和47年に、マサさんの提案で「道無照会」を結成した。読みは「ドウナッテルカイ」というのが正式だが、別に「ドナイショウカイ」と読んでも構わない。会の目的は、少年の夢の実現、男のロマンという最もらしい理念を掲げていた。
 少年の夢とは具体的に何なんだろう? マサさん曰く「少年は、永遠に支離滅裂であらねばならぬ!」らしい。ますます訳が分からなくなる。 
 今でこそ、少年の夢、男のロマンと言う言葉はやたら使われまくり、汚れてしまっているが、当時はそこそこに新鮮な響きを持っていた。道無照会の会員は3名だけで、現在の平成18年まで細々と続いている。先々週、表紙のご挨拶に書いた、今年の5月の連休に八丈島に釣りに行ったのも、道無照会の年次総会であった。4名となっているのは、平成16年の年次総会の時に、コウさんが会員になり、会の結成30年にして始めて会員の増加を見たのだった。
 コウさんは、六十六歳、引退したデザイナーで真鶴に居を構え、優雅に作画三昧の日々を送っている。彼は本来画家を指向していたが、それで飯を食うのは大変だと思い、デザイナーの道に進んだ人である。今が最も幸せなのかもしれない。
 とにもかくにも、考えようによっては、任意の零細な団体で三十年以上続いて活動をしているのは、珍しいのではあるまいか?


 前置きが長くなってしまったが、そう言うわけで私は「道無照会」の行事活動の一環として、雨の中、リュックを背負って竹芝桟橋を目指していたのだった。竹芝桟橋の海は東京湾と言えども、太平洋の一部であると言っても間違いではないだろう。
 私は多少の期待感胸に抱いていた。我々の暴挙をマスコミが興味を持ったらしく、T新聞の夕刊に紹介されていた。その情報を聞くと早速T新聞を購入して記事を読んだ。おざなりではなく今回の暴挙についてかなりの紙面を使っていた。インタビューに応じたのは、無論ミチさんである。彼が今回の暴挙を知り合いの週刊誌のライターに話したところ、いたく興味を持ち情報を流したらしいのである。無論、ミチさんはこれ以後、自ら志願して道無照会の渉外担当の役割を引き受けた。そして、マスコミとやらが取材に竹芝桟橋まで来るというのである。取材ってどんなものだろう? 記事に載るのだろうか? 大部分は没になると聞いたことがあるがそうだろうか? 気持ちは上ずっていく。私はけっこう純な若者だったのだ。
 渡船場の建物が見えてきた。手前は広場になっている。現在の立派な建物とは異なり、渡船場は古めかしい造りだ。広場もコンクリートではなく土であった。
 なにやら人が大勢集まっているのが見える。建物の光だけでなく、自前らしきライトが並んでいた。

 

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