エッセイ<随筆>




 よれよれ三人旅(5)

 


 
 雨は上がり、気力体力ともに回復した我々を次なる試練が待ちうけていた。地方選挙を翌日に控え、宣伝カーが縦横無尽に行き来し、支持を呼びかけると言うより、候補者の名前をがなり立てているのだ。最近は、民主主義が多少とも成熟したせいか、かなりおとなしくなったが、当時は無茶苦茶であった。今では、ちがう候補者の宣伝カーがすれ違うと、互いにエールを交換する風景も見られるが、この時は違った。お互いに候補者の名前をがなり立てる。目的は、相手の名前をかき消すことに終始するのだ。うるさいったら堪らない! 
「最後のお願いにまいりました!」
 これは、選挙が終われば、金輪際お願いなどしないという、決意の表明であろう。
「○×は、頑張っております!」
 その通り、言われなくても頑張っているのは明白だ。でも本当は当選してから頑張ってもらいたい。
 マサさんの持論で行くと、いまだかって日本において民主主義が成立したことはないという。弥生時代のままだそうだ。ただし例外は、幕末における長州藩において民主主義が垣間見られたらしい。まあ、現実が間違っているというに等しい暴論であろうが。

 選挙に関してはこんな事があった。今回の徒歩旅行に備えて四月に多摩丘陵でトレーニングを実施した。我々は、桐生から横浜に至る忘れられた通称“絹の道”をコースに選んでいた。忘れられた道とは言いながら、歴史の趣を醸し出す素晴らしいハイキングコースであった。
 ところが、我々は唖然とする光景に出くわした。絹の道が無惨にも分断されていたのだ。重機を使い、切り取られた土の断面は、生命の息吹を感じられない赤土であった。表土をこれほど無惨に剥ぎ取れば、原状回復は明らかに不可能に思えた。土壌の表皮は有機物の塊である。ここまで掘り起こすのは暴挙である。興奮のあまり、私は百年たってもここには、ぺんぺん草さえ生えないであろうと言い切った。
 当時、マスコミで喧伝されていた多摩ニュータウンの建築造成現場だったのだ。高度成長経済の栄光、輝く日本国家の希望の象徴であるニュータウンであったはずだ。
 ところが、今や、その多摩ニュータウンも、団地の老朽化が進み、空き部屋が目立つ老人の町と化してしまったらしい。建て替えの話しも出ているという。
 私が老齢化したのも無理はない。絹の道も、多摩ニュータウン、そして私と、順番に役割を終えたものは消えていくのだろう。
 ただ、若い人にあえて言わせて頂きたい。ニータウンも、そこの住民も、さらに私さえも、今まで頑張ってきたのだ。本当のところは日々の生活に汲々としていたのが真実で有ろうとも……。
 
荒廃した自然を前に、いささか憤慨していた我々は、来たるべく東京都知事選に“どうなってる会”の推薦候補所を決めようという話しになった。もちろん言い出しっぺはミチさんである。さんざん議論を重ねた結果、ミチさんの強い希望でKという候補者を推薦することに意見の一致を見た。
 K候補者はどんな人物なのか、三人はよく知らなかったが、その風体だけは承知していた。はやい話、どう見ても乞食であった。
 新宿駅西口、地下広場の雑踏をフンドシ姿で頭に丸椅子をのせ、微笑みを振りまきながらヨタヨタ歩き回るのが彼の選挙運動らしいのだ。まさにどうなっているのか訳が分からない点が推薦の理由であった。
 選挙の結果、彼は善戦むなしく(?)落選となった。善良なる国民の義務としての投票行動としては如何なものか? と有識者からは非難されそうであるが、それはそれとして結果はそれで良かったのだが、後日、重大な背信行為が発覚したのだった。

 ミチさんは、こともあろうに別の候補者に投票し、しかも、その候補者が当選したことを自白したのだった。
 二回に一回は棄権する私はむろん、ここのところ選挙にはほとんど棄権を続けていたマサさんも、K候補に一票を投ずべく、わざわざ投票所に足を運んだというのに。
 そもそも、言い出しっぺはミチさんであり、K候補推薦にもっとも熱心だったのは彼ではなかったか……。
 これはどう考えても、背信行為以外の何ものでもない。彼が厳しく自己批判を迫られたのは当然のことである。普通に考えれば、いささか変である。非難もされよう。しかし、いかに非社会的行動であろうとも、ミチさんの行動は許されるべきではない。そう、我らの“どうなってる会”は、反社会的ではなく、非社会的匂いをただよわせる会であることが存在価値でもあったのだ。

 大泉学園に着いた。何だかんだと言いながら、歩けば目的地に到着するものである。駅前のトンカツ屋に駆け込むと、三人はロースカツ定食を注文した。久しぶりに栄養タップリの食事である。思えば昨夜から、ろくなものを喰っていない。食はエネルギーの源泉である。喰って寝て排せつすることは生きていく為に欠かすことは出来ない。酒なんぞは、飲まなくったって死ぬことはない。しかし、人は…言い換えよう我らは、何を好んで死ぬほど酒を、飲むのだろうか?
 人はなぜ生きねばならないのだろうか? 答えは明白である、生まれたから生きているのである。単にそれだけ。
 さらに、人間という種は、自然から収奪するばかりで、ほとんど還元することがない。還元するとしたら、排泄物と死体だけのような気がする。人間とはウンコ製造機であるという断定は、あながち間違っていないような気分になる。

 三人は満足して店を出た。これから先は、適当な野営地を見付けるまで一気に歩くつもりだ。予定の行程とはたいそう遅れている。強行軍で頑張るしかない。
 その為には準備が必要だというマサさんの提案で、靴の中敷きを買うことにした。マサさんという男は、とにかく計画、準備が大好きである。それが彼のアイデンティティらしい。しかし残念ながら判で押したように、計画倒れになるのが玉に瑕であったが。

 三人とも、足の豆に悩まされ始めていた。この後、足の豆ぐらいは快感の範疇だと言い切れる悲惨な状態に陥るのだが、この時はまだ、そのような事態が訪れるとは知るよしもなかった。
 靴屋を見付けて中に入った。あるじに話しかけて、フェルト製の中敷きを注文する。各自の靴に合わせて切ってもらう。ミチさんとマサさんは、キャラバンシューズ(現在、こんな靴は売られているのだろうか? ようは簡易登山靴である)そして、私はサハラ砂漠で大活躍したブーツである。
 ハサミを使いながら、店のあるじがこんなことを言う。
「あなた方も徒歩旅行をしておられるようだが、昨日のT新聞には、なんと新潟まで歩く人の記事が出ていましたよ」
 ミチさんがニンマリ笑った。
「実は我々がその三人なんです」
 渉外部長のミチさんの出番である。
「えっ、そうでしたか。これは驚いた。しかし、それにしては少しペースが遅いのではありませんか?」
 あるじは、小首を傾げた。
「慣れないことをするもんだから、足が痛くてかなわない」
 マサさんは本音を言うが、中野で現実と妄想の混乱を来したことは言わない。
「雨に降られたことと、夜通し歩いたことがペースを乱した原因のようです」
 とミチさん。
「見通しが甘すぎたんです」
 と私。
「いや、最初は苦しいが慣れれば楽になりますよ。私も山が好きで、行きたくてしかたがないのですが、なにしろ仕事が忙しくてかないません」
 と、しきりに羨ましがる。
「無事に目的地まで行かれることを祈ってますよ」
 と励まされ、ついでに新座町までの近道を地図に書いてくれる。なお、中敷きは2割引にしてくれた。 
 現在の靴屋さんでも中敷きを売っているのだろうか? 中敷きという言葉を最近はとんと耳にしない。さらに、当然の如くおこなっていた、靴底の張り替えなんて全く耳にしない。革の靴底が少なくなったといいながらも、高級品の靴底は革である。靴自体が消耗品になってしまったのだろう。

 靴屋のあるじともそうだが、人との出会い、これが旅の醍醐味である。私は風景に感動することはあまりない。三十数年前のこの旅を思い出すのも、人との出会いが多い。そして自分が苦しかった記憶であり、あまり景色を思い出すことはない。
 靴屋のあるじの地図は正確であり、なんなく新座町に着いた。野営地点も新座郊外の川のそばと決定したので、余裕が出てきた。日没前にそこに行けばいいのである。
 そうと決まれば中休止をかねてコーヒーでも飲もうということになった。そうこうしているうちに、こぢんまりとしたスナックの前で、年配の女主人らしき人が、開店準備であろうか、掃除をしているところに出会った。
「コーヒーが飲めますか?」
 ミチさんが尋ねる。
「まだ、店の中が綺麗になっていませんが、それでもよろしかったらどうぞ」
 こころよく招き入れてくれる。三人は薄汚れ、むしろ綺麗なところは入りづらい。この女主人との出会いも、旅の忘れがたい記憶になっている。




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