エッセイ<随筆>




 よれよれ三人旅(6)

 


 
 この女主人は、起こった出来事から年齢を逆算すると六十歳近いはずだが、もっと若く見える。背骨がシャンとして、気品さえも伺える。
 彼女は丁寧な動作でサイホンにてコーヒーをたてる。その間、コーヒー談義をひとくさり。くどくなく、いい話であった。声と話し方で人間の品性は表れるものだと、私は信ずるのである。
 コーヒーを口に運んだ、マサさんが、うっ! と息を止め私を見た。
「うまい!」
 マサさんがこう言うことは大賛辞である。とにかく彼は味にうるさい。どんな高級料理、有名店であろうとも、平気で不味いと言って箸を置くことも多い。それが昂じて自分で料理をするせざるを得ない羽目に陥った男である。なるほど、彼の言うとおり、私も美味いと思った。
 味覚音痴であるはずの、ミチさんも、これはいける! とほざいた。味覚に関しては、マサさんに追従する男の面目躍如。ミチさんは言う。このコーヒーは、銀座や新宿の有名店を凌ぐ味であると滔々と語り始めた。苦笑しながらマサさんは私と視線を合わせる。
 調子がよいのはミチさんの真骨頂である、彼に釣られたのか、女主人は気分良くなったらしく自分の過去を語り始めた。
 マサさんがさり気なく、そっと私に耳打ちをした。
「この人は、西の出身だぞ」
 初対面の人に、自分のプライベートなことを平気で話すのは、関西以西の人の、特徴の一つであると彼は言う。

 女主人は九州の出身で、この地、即ち埼玉県新座町(今の新座市)に移り住んだのはそんなに以前のことではないらしい。若い頃は海運業を営む夫とともに朝鮮で生活をしていた。やがて終戦を迎える。その混乱のなか彼女は不幸にして夫と離ればなれになった。彼女はまだ幼い二人の男の子を抱えて、命からがら本土へ引き上げて来た。詳しくは語らなかったがその途中の苦労は並大抵ではなかったと言う。その後、夫とは再び相まみえることはなかった。
 本土に上陸したのは、山口県の仙崎港。雨の夜だったという。ここは戦後の引き揚げ船で有名な港である。取りあえず子供を屋根のある所に待たせておいて、一人夜道を宿探しに走り回った。方々に頼んで廻った結果、やっと台所の土間に一夜の宿を提供してくれる家が見つかった。
 子供の所へ取って返し、二人の子供を台所の隅のムシロに寝かせ、明日のためになけなしの米を炊いておにぎりをこしらえた。
 翌日も雨模様の空だった。彼等は九州行きの列車に乗るために駅に行く。待合室には溢れる人の群れ。子供連れの婦人が目立つ。着の身着のままで逃れた疲れた顔。どの子供もお腹を空かせ、欠食児童みたいな顔をしている。いや、欠食児童そのままである。
 彼女は昨夜こしらえたおにぎりを大事に抱えている。しかし、大勢の人達の前で、それを我が子にだけ与える勇気はなかった。さんざん思案のあげく彼女が思いついたのは、便所の中だった。そこなら他人の目にはふれないで済む。大きなおにぎりを思い切り食べさせてやれる。
 二人の子供におにぎりを持たせて便所の中に入れ、外に立って待っている間にむしょうに悲しくなった。
「人間、どたん場に立たされると意地汚くなるものですね…」
 と、彼女は言った。
 彼女の言う通りだと思う。人間なんて所詮そんなものだろう。しかし、その意地汚さを恥、悲しくなるのが救いでしょう。私も出来ればそのような感性を持ちたいものだ。
 でも、悲しさに目を潤ませるのも余裕かもしれない。本土の土を踏んだという安心がなせる業かもしれない。朝鮮半島より引き上げる際の、本当のどたん場に立たされた話は彼女はしていないと思う。誰にも言っていないだろう。言い方を変えよう、きっと誰にも言えないだろう。

 話しているところへ、表のドアーが開いて、男が氷を届けにきた。最近は、ほとんど見られなくなってしまった、氷室である。
「遠いところをご苦労さん。コーヒーでも飲んでいったら?」
 と言う彼女に、
「いや、仕事が忙しいから」
 と男は我々に軽く会釈をし、せわしなく出て行った。
「あれがさっき話した二人の子供の、上の方です。二人とも立派な社会人になってくれて、私はもう何の心配もありません」
 中休止のつもりが、話しに花が咲いて大休止になってしまった。しかし、こういう出会いがあるのが旅の醍醐味ではなかろうか。
 ここで、流行の県別人情の違いなどという蘊蓄を傾けるつもりは全くないが、初対面の人間にここまで話す人は、マサさんではないが西の人間の特徴と言えるだろう。あなたの周りを見回して下さい。どうです?
 このHPの技術管理人のヒロ子さんは、本人はもとより両親も、生まれも育ちも東京。父方は江戸時代の初期から東京住まいという環境のせいか、この間の事情がよく判らなかったらしい。私と知り合ってカルチャーショックを受けたという。ようは、開けっぴろげらしいのである。ガラーンとした寺の本堂の様なものである。普通は襖とかで仕切が有るでしょうに。
 同じく東京生まれの東京育ちの、一貫堂のダイスケも言う。
「下関の人間は自分には合う気がする。簡単に言えばいい加減なところがです!」
「まあ、そんな気はするな…」
 という私に、
「塩川先生は下関の生まれですよね」
「ああそうだ」
「岩目地先生は違いますよね?」
「岩目地先生は高知の生まれだよ」
「ですよね…納得…」
 ようは、塩川先生はいい加減で、岩目地先生は頑固と言いたいらしい。どうでもいいけどダイスケ、書いてしまったぞ! あとは私の知ったことじゃない!
 なるほど、少なくとも私はいい加減な人間であることを認めよう。


 雨があがるとすこぶる気分がよい。それに、都心への通勤圏内とはいっても、このあたりまで来ると緑が豊かだ。都心の青山一丁目と違って、三人が一列になって歩いても違和感はない。
「おじさんたち、テレビに出てた人でしょう」
 小学生の子供に声を掛けられる。
「そうだよ」
 何度か声を掛けられた。庭から手を振ってくれた老人が言っていた。どうやら、朝のNテレビのニュースで流されたらしいのだ。当然、我々はニュースを見ていないが、
「あの船は停泊中である」
 と意味もないことをほざいた、ミチさんの言葉はカットされていることだろう。

 途中で夕食の材料を仕入れ、予定通り日没前に野営地に着いた。所沢郊外で道路から少しはいると小川の土手にでる。比較的なだらかな台地で、一部分に苗木が植え付けられているが、あとはすべて雑草に被われていて野営地としては申し分ない。
 やたらな場所にテントを張ると土地の所有者に叱られるので、前もって断っておいた方がよいのだが、あいにく近くに人家らしきものが見あたらず、断りようがない。誰かが来たら訳を話すことにして、さっそく野営の準備に取りかかった。
 ミチさんと、マサさんがテント張りに取り掛かり、私が川のそばまで炊事用具を運び、食事の準備に取りかかった。むろんキャンプに必須の飯盒炊さんである。当時は飯を炊くには飯盒以外にあり得なかったのだが、今はどうなんだろう?
 さらに言えば、二人が張っているテントは昔の家型のものである。最近のテントのように簡単に張れるものではない。これを私は一人で張れるノウハウを持っていた。当時より遡ること数年前の、房総半島の千倉で私が一人でやったのだ。この時も三人で、大変な目にあったのだが、今回の旅とは関係ないので省く。

 三人が、それぞれ忙しく立ち働いていると、今しがた歩いて来た道路に一台の小型トラックがやって来て急停車した。
 むろん我々はトラックを注視する。すると運転席から野球帽に長靴の男が降り立ち、ゆっくりテントの方に歩いてきた。直感的に、土地の所有者に違いない! と思った。
 男は少し離れた苗木の植わっているあたりまで来ると、ピタリと止まった。さりげなく苗木に手を触れ成長具合を見るような素振りをし、しきりに我々の様子を窺っているのが見え見えだ。そのしぐさが、なんと青山一丁目の交番のお巡りさんとそっくりなのだ。
 男は、しばらくそうしていたが、意を決したように我々に近づいてきた。
 
 

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