エッセイ<随筆>




 よれよれ三人旅(7)

 


 
 「キャンプかね?」
 野球帽の下は無精髭を生やしている。立ち居振る舞いから受ける感じとは違って、意外に歳は若く三十歳そこそこに見える。ミチさんが任務到来とばかりに前に出る。
「いや、徒歩旅行をしている者です。明朝は早く出発しますから、今夜一晩お願いします」 完全に土地所有者だと思いこんだ言葉だった。
 途端に男は愛想をくずした。
「やはりそうか! 世の中には馬鹿なことをするする奴がいるものだ。俺もそのうちの一人だから馬鹿なことをする奴が好きだ。おおいにやれ!」
 と言うと、もう仲間の一員にでもなったように草むらにしゃがみ込んで彼自身の体験談を語り始めた。

 案の定、男はこの土地の所有者で植木屋を生業としていた。気ままな一人旅が好きで、リュックを背に、北は北海道から南は九州まで日本中を歩いたらしい。野宿をしていて野犬に襲われ、丸太ん棒で渡り合った話しを自慢そうにする。
「自転車で日本一周している大学生を俺の家に泊めてやったこともある。馬鹿なことは若い時しか出来ないからな」
 としきりに馬鹿な奴を連発する。その言葉がよほど気に入っているらしい。
「そんなに若くもないよ」
 とミチさんが言う。
「いや少なくとも俺よりは若いだろう。三十を過ぎると、若いとは言えないからな」
 と先輩ぶる。さすがのミチさんも三十五歳だとは言い出せない。
「何ごとも若いうちだからね」
 などと調子を合わせている。 
 そのうち彼の話は次第に熱を帯びてきて、国内旅行から海外旅行にまで及んでとどまるところを知らない。好意的な態度は嬉しいのだが、何時までも話し込んでいたのでは設営作業と夕食の準備が進まない。
 マサさんと目で合図しあって、男との応接はミチさんにまかせ二人は所定の作業を再開した。
 夕食の支度がととのった頃、男は話し疲れたのかこれ以上じゃましては悪いと思ったのか、ようやく腰を上げた。
「明日はこの道をこう行けばよい」
 と五万分の一の地図を指さしながら、川越までの近道を教えて引き上げていった。

 グランドシートを広げて座り込む。中野ブロードウエイの時と違って気分は最高。夕食のメニューは、まず飯盒で炊いた飯、インスタントラーメン、ベビーハム、サバの水煮の缶詰、それに新宿のマネージャー氏に頂いたウイスキー、できあいのものだが、けっこうにぎやかである。
 マネージャー氏は慧眼の持ち主だった。おそらく登山の経験が豊富なのであろう。疲れてやっと確保した寝場所。そこで食事を取るときは、ビールなどの弱い酒では駄目である。たまっていた疲労が一気に吹き出し、何も出来なくなってしまう。こういうときは、強い酒をストレートで飲むに限る。お分かりだと思うが、身体がシャンとするのだ。もし疑問をお持ちの方がおられたら、試してみて下さい。

 飯盒で飯を炊くのは私の特技の一つである。というか、飯盒なるものは飯を炊くのに最適な道具なのだ。ちょっとコツを掴むと、誰でも旨い飯が出来上がる。日露戦争のときには既に軍隊で使用されていたらしいが、誰が何時作ったのかは分からない。
 さらにメニューの中で注目すべきはベビーハムである。私の大好物の魚肉ハムなのだが、最近はほとんど売られていない。今から遡ること五十年以上も前のことである。幼稚園児だった私の友達の女の子(お金持ちのお嬢さん)が、お弁当にソーセージとやらを持ってきていたのだ。
「○○子、ソーセージ大好き!」と、のたまうではないか。
 覗いて見ると、つやのある何とも美味しそうな物体だった。親にねだって一年後ぐらいに私もソーセージを食べることが出来た。これが魚肉ソーセージである。子供ながらに感激したことを今も覚えている。
 魚肉ソーセージ、魚肉ハム、プレスハム、ロースハムと、私は遍歴を重ね、遂にローストビーフに行き着いてしまった。ローストビーフを食べたときの感想を覚えている。
“良くないことだ! 人間はここまで贅沢をしてはいかん! 今に罰が当たる!”であった。私は罰が当たるのは厭なので、ベビーハムを探すのだが、最近はほとんど目にすることがなく、魚肉ソーセージで我慢している。

 何だかんだと下らぬことを話しながら、すべてを食べ尽くし飲み尽くした我々は、シートに横たわった。あたりは、もうすっかり暗くなっている。小川のせせらぎだけが聞こえてくる。誰も話しをしない。
 しばらくそうしていた我々は、簡単に後かたづけをすると、各人それぞれシュラフに入り込んだ。時間は午後九時。この時間に就寝なんて当時の我々には考えられないことだった。
 いつもなら、参宮橋あたりのスナックから出て、いざ新宿へ! とくりだす時間である。 ランプを消すと、あたりは気味の悪いほどの暗闇。晴れた空には星があふれている。完全徹夜の上にひどい疲労である。すぐに眠りに着いてしまった。


 起床は五時三十分。昭和五十年四月二十八日である。小鳥の声で目が覚めるなんぞは、実に素晴らしいことである。それもやたらと種類が多い。聞く人によれば雑音と聞こえるかも知れないが、(音に関する感性は、本当に人様ざまである。そこから悲劇が生まれることも希ではない)私はすこぶるが気分が良い。他の二人も同じように感じているに違いない。シュラフから半身を起こした顔つきが、穏やかで微笑んでいる。
 何という鳥だろう? という私の疑問にマサさんが答えた。
「あれは、何々、あれは何々…」
 と、幾つもの鳥の名を口にした。彼はさらに、
「テル、自然と親しむには、動物、植物を知ることが必須だ。あれは、何々…」
 と言い続けるのだ。私には知ってる鳥の名前を、並び立てているだけにしか思えなかった。
 今から三十年前の昭和五十年当時、所沢郊外の小川の近辺にはこれだけの小鳥がいたのである。現在はどうなのだろうか?
「レッツゴー!」
 というミチさんの掛け声に私はテントを飛び出した。思えばなんでレッツゴーなんだろう? 「やるぞ!」でも「始めよう!」でもいいはずだが?
 我々は軽く柔軟体操をし(ラジオ体操が身体に染みついている世代である)撤収作業に取りかかる。前日調達していたパンに紅茶の朝食を済ませ、生ゴミは土を掘って埋める。
プラスチック製品など土に還元しない物品は持っていく。我々のキャラクターからは信じられないことかも知れないが、この点に付いては徹底していた。平成十八年のゴミに対する公共心から見ても恥ずかしくないほどであった。

 午前七時、野営地を出発。地主の植木屋が教えてくれた川越への道はなるほどと感心するものだった。車の行き交う街道をさけ、路傍に草花の咲きほこる自然道で、歩くには絶好のコースである。
 主要街道には“○○まで何キロ”という表示が随所に出ている。交差点では“左何キロ○○市、右何キロ××市」と出ているので道に迷うことは無い。その点は楽なのだが、車の行き来に神経を使わねばならないのと、舗装道路は徒歩には相応しくないのだ 。二〜三十分ならそれほどのことは無いだろうが、二〜三時間となるとそうはいかない。足に負担がかかり、疲れるし、足が痛くなる。よって、徒歩旅行には舗装道路は相応しくない。
 多少にぶいところもある我々も、そのことは歩き出してしばらくすると気が付いた。だから、やむを得ない場合を除き、主要道路はなるべく避け五万分の一の地図でたんねんに調べ、それらしき道を探しながら、自然道を歩くことを心がけた。したがって、何度も道に迷う結果となってしまった。

 今私は同時代にミチさんがかいた文章を読んでいる。ミチさんが書いた文章で当時の記憶が蘇ってくる。エッセイを書くに当たって、私にとっては彼の文章は欠くべからざるものである。体験したことのない人が読んでも面白いものをと、私なりに苦心しているのだが、どうであろうか?
 ミチさんはここの場面で感情的になって書いている。
「道は本来人間が歩くために作られたものである。ところが交通手段の発達に伴い、車の通る道路に化してしまった。…ガードレールは車と電柱を保護するために作られ、断じて歩行者を守るものではない!……ドライブなど感性のない人間の旅行である!」
 と、呪詛の言葉が並んでいる。
 確かに彼の言う通りである。その気持ちが良く分かるのは、幹線道路(主要道路)を数時間歩く者の立場になった時に感ずることなのだ。幹線道路を数時間かけて歩く人などいないに等しい。道路の主役は車輌であり、人や物資を運ぶ動脈である。

 酔っぱらって夜の六本木の裏道をフラフラ歩いていると、車が進入してくる。そのたびに避けるのが、うざったくてしかたない。よって、なかなか道を譲ろうとしない。車はクラクションを鳴らす…。
 逆に、夜、その道を車で通らざるを得ないこともある。その時は、酔っぱらいどもを、ひき殺してやりたくなる。
 立場によって、思想、感情が変わるのは、人間という動物の性でしょう。
 
 

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