よれよれ三人旅(9)
川越に着いた頃には疲労と空腹は頂点に達していた。満足に朝食も取らずに五時間歩いたのだ。今では、このあたりにはコンビニも多く軽食には事欠かないだろうが、当時はそうではなかった。考えて欲しい、当時は、外食という言葉が一般化されてきて、そのライフスタイルの確立の兆しが見えてきた頃なのだ。市街地を除き、レストランは無く、ソバ屋や定食屋は希だった。
とりあえず、我らは鉄道のガード下で荷物をおろし食堂を探す。いかし、あいにく近くにはそれらしき店は見つからない。大きな街だから食堂などいくらもあるはずだが、市街地に行くことはルートが外れることになる。そんな道草をする余裕は我々にはない。しかたないのでしばらく休むと、重い腰を上げ歩き始める結論になった。滅入った気持ちの鞭打ってガード下で雨具を身にまとい、再びトボトボと歩き始めた。前に進むしかないのである。
行く道に食堂があることを願いながら、何ものかに突き動かされるように我々は歩を進めた。一つだけ残っていたレモンを三人で分けあってしゃぶり、水筒で喉を潤す。
道行く人が怪訝そうに見つめ通りすぎる。ひょとしたら敗残兵のように見えたかも知れない。
ガード下とか、橋の下という言葉が多く出てくるが、これは、河原乞食という名が室町時代からあろうとも、決して乞食の専売特許ではない。三人はごく自然にそういう場所で休む。雨露がしのげるからである。もともと住居は、そのような必要性から生まれたということが乞食のようなことをしているとよく判る。
ここまで書いてきてふと思った。ごく自然に、馬鹿とか乞食と書いているが、この言葉は差別用語として使用禁止になっているのだろうか?
だれかが決めたのか、マスコミが主導したのかはよく判らないが、最近使用禁止の言葉は多くあるようだ。子供の頃のにはごく普通に喋っていた言葉が禁止されている。その事情も分かる。言われた本人は堪ったものではないだろう。したがって使用されるべきではないと私も思う。
ただし、辞書には残しておいて欲しい。日本文化の一片だと思うからだ。言葉が失われると同時に、その背後の歴史的生活感情を窺うことも出来なくなってしまう。
さらに、昔の文学作品から、それらの言葉を勝手に書き換えるのだけは止めて欲しい。
馬鹿、については、
「イワンの馬鹿」という童話がある。これは「知能の後れているイワン」「イワンは知的障害者」という表題にはなっていないので、“馬鹿”で良しとする。
乞食、については、
同じく「乞食王子」という童話がある。これも「ホームレス王子」になったと聞いたことがないので、これも良しとする。
馬鹿は親愛の情を吐露する使い方がある。乞食(コツジキ)は仏教においては尊敬語ですらある。(乞食桃水は、古今まれな名僧の呼び名)
ハゲという差別用語がある。マスコミではほとんど見聞きできないが、日常生活ではよく使われる差別用語である。言われた方は深く傷つくという。(幸いに私はハゲではない)しかし、「頭髪が薄い人」ではなんとなくしっくりとせず、場合によっては逆にきつい差別のように思う。「頭髪が不自由な人」に至ってはギャグになってしまう。
禿鷹(ハゲタカ)はどうするんだ!
前方から、ソバ屋の出前が自転車でやって来た!
「おい、もう少し行けばソバ屋があるぞ!」
弱々しい発声ではあるが、ミチさんが歓喜の声を上げた。
「確かに、出前に行くところだったらな……帰りだったらどうする」
マサさんが、冷静に言い放った。これが、マサさんのキャラクターである。あの出前は、行きか帰りかを弱々しく論争しながら歩いていた時、我々は食堂を見付けたのだ!
遙か先ではあるが間違いなく食堂である。ソバ屋より定食のある食堂の方が理想的に決まっている。米のメシだ!
その食堂は小さいながらも、メニューは豊富だった。さばの塩焼き、焼き肉、ニラレバ炒め、めざし、卵焼きと単品を注文し、メシの大盛りにみそ汁、お新香付きを注文し、ヤケクソみたいに食べる。(ミチさんは、こんなメニューまでメモしているのである。彼はいい加減さと偏執狂の両面を持っている)
店のテレビでは、少女歌手が身振り手振りよろしく歌っているのが眼に入る。自分とは隔絶した遠い世界に感じる。宇宙人が歌っているように、なんら心に届くものが無い。完全に無感動。
食事が終わったあと、椅子に座ったまま仮眠をとる。かくして、一時間の大休止となった。
食堂を出発してからは、両側に田圃の広がる農道を歩くことになった。雨降りのため滑って歩きにくい面はあるが、それでも自動車道よりはましだ。こんな時、道でも間違えればそれこそ取り返しがつかない。要所要所で地図とコンパスで現在位置を確認する。それだけでなく人に出会ったら必ず道を聞く。まさに必死の徒歩修行だ。(なんの修行なんだ?)
冗談を言いあう余裕もなく、黙々と歩き続けている内に、突然、私が足の筋に異常を来し歩くことが困難になった。たまたまそこは入間川にかかる大きな橋の側だったので、とりあえず橋の下で対策を練ることになった。
半長靴(ブーツ)を脱ぐと足が腫れ上がっている。右足首の踵の上あたりだ。足を投げ出し水に浸したタオルで冷やし始める。他の二人も靴を脱ぐ。マメがつぶれ血豆は勢いよく自己主張をしている。三人とも靴に隠れた足は悲惨な有り様だ。
弱い雨は降り続いて止む気配がない。なんでこんなに雨が続くのだろう。滅入ってしまう。情けない気持ちで三人は真剣に意見を交わした。
入間川の橋下は、休息には適しているが、野営は困難だ。川に沿った道以外は斜面でテントが張りづらい。さらに何と言っても橋は人通りがある。こんな時間にテントを張ったらまさしく乞食である。斜面に寝袋で一夜を明かすのもいっきょうだが、我々は気持ちだけは徒歩旅行者で日本海をめざしているのだ。決して乞食を目指しているわけではない。
しかし、こんな状態でさらに先を目指そうという、本当の理由はマスコミにあった。出発前、T紙やNテレビで取り上げられたことで、この度の本計画が、単に三人だけのものでは無くなっていた。世間に公表してしまったのだ。現にいままで何人もの人々に声を掛けられ、励まされている手前もある。遅ればせながらも、何とか予定のスケジュールに乗せたいと思うのが人情であろう。
あまつさえ、明日は東京からM新聞社会部のI記者がカメラマンと一緒に取材に来る約束になっている。
なにも、マスコミのためにこんな旅をしているわけではない。最初は思いもしなかったことだ。しかし、出発の直前になって、ミチさんがマスコミに情報を流した。そしてマスコミがその話しに乗ってきたと言うのが真実である。マスコミなんぞは意に介する必要はないという意見も出る。というか、私の意見であった。
でも「口ほどにもない奴らだ!」と笑われたくもない。
喧喧諤諤の議論を経て、今日中に東上線の坂戸町まで行こうと決まった。そこまで行けば適当な宿もあるだろう。でも、この最悪のコンディションで、後何時間も歩くことが可能だろうか。
そんな時、ミチさんが解決策を提案した。
「こんな状況で、坂戸町まで歩くのは不可能に近い。この重い荷物さえなければ何とかなると思うがどうだ?」
「でもこんな場所に、荷物を放置するわけにも行くまい」
とマサさん。
「まあまて、先ほどから見ていると、すぐ側の自動車道を通るタクシーをときどき見かける。俺が三人分の荷物を乗せて、タクシーで坂戸町まで行き宿に荷物を降ろし、そのままタクシーここまで帰ってくる。そして、また歩き出す。どうだ良い考えだろ?」
何という名案だ! でも、名案すぎて何となく引っかかるものがある。悪魔のささやきがミチさんの口をついて出てきたのかもしれない。
しかし、言い出しっぺのミチさんも含め三人にはその方法をとることに、心の抵抗があった。なにせ、悪魔の囁きなんだから。
「自分たちは何のために馬鹿なことをしているんだろう?」
という疑問が湧いてくる。
結果的に雨の中を三人は歩き始めた。大きな荷物を背負い、絶望感に襲われる自らの精神をムチ打ちながら、一歩一歩踏みしめるように歩く。私の右足は、ブーツの背を折り、靴をつっかけるようにして、足を引きずって歩いていく。
次へ
|