エッセイ<随筆>




 よれよれ三人旅(14)

 


 
 昭和五十年五月一日付けのM新聞夕刊は、全国版のかなりの紙面をさいて三人の壮挙(?)を報じた。もう言ってしまってもいいだろう。M新聞とは、ご推察の通り毎日新聞である。
 題が振るっていた。“ヨレヨレ三人旅”とは言い得て妙。(このエッセイの題はここから借用した。著作権なんぞは知ったことではない)
 例の墓場で野営中の、マサさんと私の写真も大きく掲載されている。なかなか雰囲気が出ているいい写真だ。やったぜ! Hカメラマン! 奥さんご苦労さんでした。
 記事の内容については言わずもがなである。I記者が、出発前の東京での取材と一日の現地取材から、あたかもこの旅の結末まで見抜いたかの如き記事を書いたのは、さすがにプロだと感心させられる。
しかも、前段の部分に「少年の夢」という小見出し付きで、
“……心中ニ脈々トシテ其ノ生命ヲ持続セル夢ノ存在ヲ深ク自覚シ、此処ニ其ノ夢ヲ具体的ニ育成実現センコトヲ想起シ……”
 という我が「道無照会(どうなってるかい)」会則の一部まで引用して、本人たちは極めて真面目な気持ちでやっているのだ、ということを前提に記事を書いてくれたことが嬉しかった。
 変に始末の良いミチさんは、この時の新聞記事をスクラップしているはずだが、此処に乗せるのは止めておこう。スキャナーの操作など、技術管理人のヒロ子さんに頼まねば何にも出来ない私としては、申し訳なくて面倒なことを頼む気にならないのだ。それでなくても彼女には、HP作成後、四年間にわたり毎週一回の更新をお願いしているのだから。

 第一次に四日間を費やして群馬県藤岡までしか行くことの出来なかった三人は、荷物を極力軽くするなどの対策をこうじ(従ってバカではない)決意もあらたに五月三日から五日までの第二次旅程に臨んだ。
 我々は今回の徒歩旅行を甘く見ていたことを反省した。テント他、野営道具一式を背負いキャンプしながらなんぞという思いは第一次旅程で吹っ飛んでしまった。目的を単純化して日本海まで歩き通すことに労力を集中することにしたのだ。

 本来二日の夜行で出発し、現地入りする予定であったが、それぞれの仕事の都合が付かず出発は三日の朝となった。集合場所は上野駅。そこから急行に乗って高崎経由で藤岡へ向かう。
 さすがにゴールデンウイークとあって、電車は通勤ラッシュ並の混みようである。かろうじてデッキに立っていられるが、人いきれと蒸し暑さで息苦しい。三人は押されたり揉まれたりしている内に離ればなれになってしまった。

 こんなに大勢の人がこれから何処かへ行くのだ。我々と同じようにそれぞれ目的を持って。幼児を連れた夫婦は、里帰りかも知れない。幼児はあまりの混雑に気分が悪くなったらしく、ゲーゲーと嘔吐する。親は周囲の人に謝ったり子供をあやしたりと大わらわ。若い女性の二人連れは、一方の実家に行くらしい。仕事の話しや恋人の話で盛り上がり、喋り続けている。我々と同じようなハイキングスタイルの若者グループもいる。
 定員の何倍に相当するのか分からないが、およそ「旅」というイメージにはほど遠い、すし詰めの電車で押し合いへし合い、揺られながらも誰一人不平を言わない。しれどころか結構楽しい雰囲気が車内にあふれている。同じラッシュでも通勤電車のそれとは別世界なのである。
 高崎ではかなりの人が下車する。我々も押し出されるような格好で電車を降り、ここから八高線に乗り換えて、九時三十分に群馬藤岡に着いた。

 駅前で出発準備を整え、十時ジャストにスタートを切る。取りあえず目指すのは高崎。
つい今しがた、三人はわざわざ高崎からここまでやって来たのだから、何となく変な感じがしないでもない。
 上空は雲に覆われているが、雨が降り出しそうな気配はない。心身共にコンディションは良好である。
 午前中の歩行ペースは驚異的であった。特に張り切っているのがミチさんだ。前回、労働組合との団体交渉のため、途中で帰らざるをえなかった恨みでもあるのか、手を振りリズムを取ってグングン進む。
「ミチさん、あんまり張り切ると、へばってしまうよ」 
「なに言ってるんだ、グズグズしてると置いてくぞ!」
 私の忠告に耳を貸さないばかりか、歩行速度を上げるしまつ。三日間仕事(休息?)をした効果がてきめんである。
 
 途中の小休止。現在位置と方角の確認は、マサさんの仕事である。だいたい通常の感想は、「まだこんなところまでしか来ていないのか!」が常であったが、今回は違った。
「えっ!」
 とマサさんが呟きを漏らした。
「どうしたの?」
 と私。
「いや、もうこんな所まで来てしまったのか!」
 二人の会話を聞き、ミチさんがニンマリ笑う。
 なんとも信じられないくらいの快ペースである。それにミチさんの張り切りようはただごとではない。 
 だいたい彼は午前中に強い男である。午後になるとからっきし弱い。夕刻ともなるとこれが果たして同一人物かと疑いたくなるほど、疲れ果ててしょげかえる。これは基礎体力の差という事もあるが、多分に性格によるものだろう。気分屋の彼は、調子に乗ると足もよく動くが口も動く。駄洒落を連発し、自慢のノドまで披露する。
 平均ペースを維持しようとする、マサさんと私に。「どうしたどうした、早く行こう」「ノロノロしてると置いくぞ!」と同じ事を何度も言う。
 
逆にマサさんは、三人の中では夕方に一番強い。夜ともなると抜きんでた強さを発揮する。精神的に決して折れないのだ。高校在学中に実家が破産した彼は、酒場の用心棒をしながら東京に出てくる旅費、引っ越し料と入学金を工面し、大学の二部に進学。昼間は働きながら夜通学、あいまをぬって勉強をし、失業保険をもらいながら司法試験に合格したという経歴を持つ。彼の辞書には、人生に於いて挫けるという言葉はないのだ。
 高校を卒業すると某一流大学に進学し、遊びながら卒業すると大手企業に就職し、適当に仕事をこなしている。そして、一所懸命なんぞという言葉は唾棄すべきだという、いい加減な男の代表とも言うべきミチさんと、妥協を排除するマサさんが親友なのだから人間は面白い。
 マサさんはミチさんに、声を掛ける。
「朝のうちにあまり飛ばすと、午後になってくたばるぞ!」
「なーに、今日はだいじょうぶ!」
 同じ言葉を何度聞いたことだろう。だいじょうぶだった例しがない。
三人のうちで、基礎体力にもっとも優っていたのは私である。何と言っても十歳年齢がが若い。だからかなり無理もきくと、余裕を持っているかと言えばそうでもない。私の弱点は空腹に弱いことであった。基礎代謝が大きいのだからと言い訳をする。

 ちなみに、この当時のマサさんは合気道の本部道場に通い稽古を積んでいた。高校時代と酒場の用心棒時代は、かの伝説的な暴力男、塩川先生の空手の弟子であった。一方当時の私は、剛柔流空手道の宮城敬先生の道場に通っていた。
 ミチさんはスポーツ大嫌い。汗を流すなど文明人のすることではないという考え方で、身体を鍛えるなど論外。ましてや格闘技など正気の沙汰ではないと思っている風であった。

 十二時を過ぎたころから、基礎代謝の大きい私は、腹が空いて耐えられずに、「食堂!」「食堂!」と言い始めた。しかし、あいにく田舎道でところどころ集落はあるものの、食堂らしきものは皆目見あたらない。分かっていても口から食堂という言葉がほとばしるのだった。やっと食料品店を見つけ食料を買い込み、適当な場所で昼食を取ることにした。 高崎の少し手前、前屋敷というところである。道から外れ畑を通り抜けて小川の土手に出ると、やわらかい芝生を敷き詰めたような、格好の休息場所が見つかった。
 大休止だから靴も靴下も脱いで草の上に寝っ転がった。靴を脱ぐとき私は違和感を感じた。右足のアキレス腱の所が少し腫れ上がっていたのだ。でも痛みはそれほどではない。すでに豆は潰れ、その下に新たな豆が出来るという始末。足の筋の骨折(?)に比べたら豆が潰れたなんぞは、快感に等しいというありさであった。
 物思いに耽って寝ころんでいると、草いきれがプーンと鼻をつきなんとも言えない。じつにうららかな雰囲気である。小川のせせらぎの他には、ときどきヒバリのさえずりがするぐらいで、他には物音一つ聞こえない。

「うらうらに 照れる春日にひばりあがり…」
 柄にもなくマサさんが口ずさむ。その後が出ないようなので私が続けたらしい。
「心かなしもひとりし思えば」
 ミチさんは几帳面にもこんな他愛ないことをメモしているのだ。
 ちなみに、マサさんは大の文学嫌いである。小説何ぞを読む男は、文弱の徒だといって切って捨てる。その彼がミチさんのメモによると、短歌を口ずさんだらしい。まったく信じられない話しである。その彼をしてこんな気持ちになったのだから推して知るべしであろう。
 ついでに、この短歌は誰の作なのか、今の自分はまったく忘れてしまった。またまたついでに、私の最も好きな短歌は「のど紅き つばくらめ二つ梁にいて たらちねの母は死にたもうなり」という斎藤茂吉のものである。
 あっ、忘れてた。「みわたせば 花ももみじもなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」という定家も好きである。どうやら私は文弱の徒かもしれない。
 さらについでに、ミチさんは萩原朔太郎を信奉する紛れもない文弱の徒である。

 各人、思い思いの感慨を胸に、無言でその場を動かなかった。出来ることならいつまでもこうしていたい。徒歩旅行は辛いばかりではなく、こういう思いに耽ることもあるのだ。 その思いを現実に引き戻したのは私であった。
「食事にしようよ!」
 その私を二人は睨みつけた。どうやら現実を踏まえた散文嗜好は私で、あんがいマサさんも、ミチさんと同じく韻文嗜好なのかもしれない。何のことはない、マサさんも文弱の徒ではないか。
 私の提案は、真実を突いていたらしく、ごそごそと動きだし、食事の支度を始めた。メニューは相も変わらず、パン、牛乳、サバの水煮、漬け物であった。

 
 

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