エッセイ<随筆>




 よれよれ三人旅(15)

 


 
 ささやかであるが、程よい疲れと空腹感、それに澄み切った空気のもとでの昼食は、如何なるご馳走にも優る。まったく私の好みの問題だが、野外、例えば磯で釣りをしているときの昼食は、目刺し、卵焼き、漬け物、むすび、が最高である。こんな時にはステーキだの刺身だのは野暮の骨頂。
 空腹が満たされると眠くなるのは自然の摂理。いつの間にか夢の世界へ引き込まれていった。
 ふとを覚ますと、雲行きが変だ、あわてて私は二人を起こした。
「うーん…」
 寝起きの悪いマサさんは、不機嫌そうに呻き声をあげる。一方のすこぶる寝起きの良いミチさんは、
「さー、歩くぞ!」
 と景気がいい。
 なんやかやと言いながらも、去りがたい気持ちを振り切って高崎へ向けて出発した。案の定、しばらくすると、ポツリ、ポツリといやな雨が降り始めた。小雨なら雨具は着用しない方がよい。通気性が悪いから蒸し暑く不快になるからだ。このころ私は右足のアキレス腱のところに今までと違った痛みを感じていた。しかし、どうなるものでもない、高崎へ向けて歩くだけだ。

 路傍の道祖神の鑑賞は小雨の中にかぎる。何とも言えずいい雰囲気になる。ミチさんがときどき石像を撫でたり、蘊蓄を傾けたりする。この方面に関する知識はミチさんが一番である。古い街道には随所に、道祖神、お地蔵さん、馬頭観音などが眼に付が、とりわけ群馬県にはそれ等が多いような気がする。
 私も、聞きかじりの蘊蓄をひとつ。お地蔵さんは地蔵菩薩として有名だが、馬頭観音も仏教の菩薩である。宝冠に馬頭をいだき憤怒の相をしているが慈悲の観音菩薩である。江戸時代には馬の供養と結びついて信仰されるようになった。道端に多く見られるのは荷馬車の行き来と関係があろうか?
 一番、興味深いのは道祖神である。こちらは前の二つと違って、仏教には直接関係がなく、民間信仰の神様である。峠や村境などの道端にあって、悪霊や疫病を防ぐとされている。型はさまざまで、丸石、陰陽石、男女の抱き合った姿など、生殖、生命の誕生をねがっているような感じがする。では、なぜ道端に多いのだろうか? 群馬県の田舎で、不義密通の男女が道端に晒された場所にあるのだという、古老のもっともらしい説を聞いた。ということは、不義密通は群馬県に多かったのだろうか?

 これらの石像は、何百年の昔からそこにひっそり立っていて、旅人の旅情を慰め、道行く人たちに拝まれ続けてきたのであろう。昔の人の旅と生活に密着した信仰がしのばれる。今日では、旧街道といっても車で通る人が多いから、道祖神や馬頭観音は拝まれることはおろか、見向きもされなくなっているのが実情だろう。
 しかし、昔の旅人と同じように、自分の足で旅をしていると路傍の石像が妙に心にしみ込んでくる。歴史をそのまま伝える旧街道は、出来ることなら拡張せず、バイパスを通すなどして、昔のままの姿を残して欲しいと思うのは、都会人の我が儘だろうか?

 まもなく高崎市街に入ろうかという頃から、雨足が急に強くなった。とても雨具なしには歩けない。いそいで合羽を着込む。ついでに背中のリュックもビニールで被いをする。これで雨に対する備えは万全であるが、雨に降られて厄介なのは、精神的に滅入ることである。
 それまであまり感じなかった疲労が急激に頭をもたげてきた。そして、口を利くのもおっくうになる。あたりの風景を眺める余裕もなくなり、トボトボと足下をみて歩を進める。 ときおり側を通過する自動車に泥水を浴びせかけられたりする始末だ。数時間前ののどかな風景は別世界の出来事だったように遠のいていった。

 悪いことは重なるもので、午前中から違和感を感じていた右足の痛みがひどくなった。他の二人もそれぞれ懸命に歩いているのでとても休もうとは言えない。それが、ますます事態を悪化させることになった。その内ついに歩けなくなった。
「足が痛くて歩けない! 少し休もう」
 と弱音をはいた。そう言ったところで適当な休む場所はない。
「もう少しで市街にはいる。それまで頑張れ」
 と非情な言葉が返ってきた。ミチさんが再三、休もうと弱音を吐いてきたのと同じだろうぐらいの感覚であったらしい。歩いていて弱音を吐かなかった私が堪らずに言った言葉、それを二人は深刻には受け止めていなかったようだ。
 本当に歩けなくなって、アパート風の建物の階段を見つけるとそこに座り込んでしまった。とにかくブーツを脱ごうと必死になって紐を解く。しかし、腫れ上がった足は出てこない。ブーツを破らんがごとく大きく開きなんとか足を引き出した。
 厚手の靴下を何とか脱いだ。右足は、アキレス腱のところが異様に腫れ上がって、何とも形容しがたい形になっている。さわると熱を持っているのが分かる。ふと気が付くと二人の姿は見えなかった。しかし、追いかけることは不可能だ。

 開き直って心を落ち着かせる。このブーツでサハラ砂漠を歩き回ったのだ。しかし、今回のような羽目には陥らなかった。それほど今回の徒歩旅行は過酷だったのだろうか?
そんなことはあり得ない。考えると、今回の徒歩旅行を始める際にいささか靴が窮屈なのを感じていた。数年間の間に私の足が変わっていたのだろう。しかし、多少窮屈だろうと、記念の靴である。他の靴に変えようなどとは思いもしなかった。
 ブーツと靴下を脱ぎ足を外気に晒すと、熱を持った足がスーっとして気持ちがいい。私は左足のブーツも脱いだ。こちらの足は変形していない。
 膝を抱えて、両手で顎を支えた私は目の前の道と向かいの家を見ていた。何にも考えずボーっとしていたことを覚えている。三十分ぐらい経過しただろうか、二人が帰ってきた。
「おいっ、大丈夫か?」
「この通りだ」
 説明するまでもなく、私の姿を見れば一目瞭然。彼等も私の側に腰を掛けた。取りあえずなんとも出来ないので、アパートの軒先の階段で小休止となった。
 何時までもこうしていても、事態はいっこうに解決するはずがない。雨水で冷やすと痛みが次第に和らいできた。痛みはひどい靴擦れから来ているのであって、骨や腱に異常はないようだ。それが証拠に、しばらくして素足で立ち上がっても大丈夫なことを確認した。「行こう」
 と私。
「おい大丈夫か?」
 マサさんと、ミチさんが心配そうに声を掛けた。
「なんとか行けそうだ」
 私は靴紐を結びつけ靴を手に持つと、脱ぎ厚手の靴下で歩き始めた。少しペースは落ちたが痛みはさほどひどくない。しばらく歩くと靴屋をみつけ、安い運動靴を購入した。案の定運動靴は底が浅く、アキレス腱を刺激しない。

 さらに悪いことは重なる。どこでどう間違えたか、いつまで歩いても市街を抜け出せない。どうやら同じようなところを堂々巡りしている感じなのだ。そして、ついに観音山入口というところで進退窮まってしまった。
 市街地というのは道路が複雑に入り組んでいて、異邦人にとっては案外迷いやすいものである。そばの雑貨屋に飛び込んで聞いてみると、やはりとんでもない方向に進んでいることが分かった。
 当時の我々の拠り所は、国土地理院発行、五万分の一の地図だけが頼りだった。最近では数千分の一の詳細な地図が発行されており、安価で手にはいるため、我々のように道を迷う事が信じられないだろうと思う。

 残念だが引き返すしかない。苦労して歩いた道をもう一度逆方向に引き返すほど情けないことはないが、ばんやむを得ない。
 雨に降られながら絶望的な気持ちになって来た道を引き返しなんとか軌道修正をしようとする。幸いなことに、少し大きめの運動靴が足にあったらしく、痛みは引いてきた。
 どうにか市街地脱出は成功した。まずはホッとしたものの今度は現在位置がはっきりしない。マサさんは五万分の一の地図を広げ判断しようとするが、今ひとつ自信がないようだ。
 近くに学校があったので校庭に入って雨宿りをすることにした。小休止の間に現在位置を確認しようと言うわけだ。当時の学校は開放的であった。ここはたまたま高校であったが、小中学校も門は開いており自由に入ることが出来た。ところが、世の中は変わり、一貫堂六本木道場が使用させてもらっている小学校は、鉄の頑丈な門扉は常時閉まっており、門扉の前に常駐している警備員の人に挨拶の後、開門してもらうのだ。そして、校庭に入っていく背後で鉄の門扉が閉まる音を聞くことになる。
 たしかに、こどもたちの身の安全が第一なのは間違いない。そして警備要員の雇用の創造という経済効果もあるだろうが、管理された閉鎖的な空間で過ごす子ども達の心理に影響はないものだろうか? 今後の日本は、いったいどうなるのだろう。

 ご苦労にも、雨の中を高校生がサッカーの練習をしていた。球を追って走ってきた男児に、地図を見せて質問した。
「ここは何処になるの?」
 彼は、地図をじっと見つめて、指で一点を指し示した。
「ここです」
 はっきり答えた高校生は、雨に濡れてはいたが爽やかな男子であった。
 なるほど、そう言われればまさにその地点に間違いない。どうして発見できなかったか不思議なくらいである。さすが高校生は地図の読み方も早いなと感心させられたが、考えてみれば当たり前である。彼の通っている学校なのだから分からない方がどうにかしている。

 
 
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