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よれよれ三人旅(17) 翌朝、眼を覚ましたときには、昨夜の雨はすっかり上がっていた。「これはいけるぞ!」とファイトが湧いてくる。昭和五十年五月四日の朝は少なくとも晴れだった。 午前七時ジャスト。聞こえないと分かっていながらも「橋爪さん、ありがとうございました」と頭を下げて納屋を出発した。 「一気に渋川まで行こうぜ!」 朝にめっぽう強い、ミチさんが入れ込む。私とマサさんは舌打ちをしながらも、彼の後を追っていた。私の右足首も大丈夫なようだ。 ところが、一時間もすると雲行きが怪しくなり、ポツリポツリと降り出した。とにかくこの旅は雨に祟られる毎日である。 そのうち雨足が激しくなってきた。ミチさんは、つい先ほどの張り切りようとはうって変わり、口数もなくなり肩を落としてトボトボと歩き始めた。重苦しい気分に三人は被われる。小雨ならともかく、これくらい降られるとズボンを伝わり、靴の中まで雨水が浸水してくるから気持ちが悪い。 天気を呪い、誰が雨男かと犯人捜しをして歩き続けていると、それでも、十一時には渋川の市内に入った。納屋を出発してから四時間後である。 朝食をとっていないので、昼食と兼用で焼き肉やにはいった。蕎麦やラーメンを食べたいという気にならない。疲れた身体がエネルギー源を必要とするらしく、どういう訳か焼き肉が食べたくなる。 ついでながら、群馬県下には焼き肉屋がやたらと多い。おそらく関東地方では一番ではなかろうか? 群馬というくらいだから、昔から牧畜が盛んだったという想像はつく。 もう一つ、他県に比べてやたら目に付き、多いという印象を受けたのは、床屋である。統計資料ででも調べてみれば結論は出るだろうが、面倒くさいのでこのまま放っておく。 空腹を満たし、小一時間の休息を取ると、荒んだ心もやわらぐ。濡れた靴下や靴も、いくらか水気が少なくなった気がする。大休止の間に雨はすっかり小降りになって、雨具も必要ない。渋川の市街地に入っていく。 「ぐずぐずしてると、置いて行くぞ!」 と捨てぜりふを残して、ミチさんがトップをひいた。 渋川の中心街は東京近郊の一寸した繁華街にもまさるにぎわいぶりだ。メインストリートは休日のこととて「歩行者天国」として市民に開放されていた。ショッピングや散歩を楽しむ老若男女が大通りにあふれている。 歩行者天国の発祥は、記憶によると銀座か新宿だったと思う。新しい風俗、文化として日本全国に広まるのに時間は掛からなかった。全国津々浦々、どこへ行ってもその町の主要商店街の道路は、休日になると歩行者天国として開放されていた。 ところが今日、歩行者天国をしている商店街が日本全国にどのくらいあるのだろうか?どうやら、一時の流行として廃れてしまったらしい。人々の生活感が変わったのか、商店街そのものが集客力を失ったのか分からない。ただ、現在でも歩行者天国を休日に必ず行っている商店街があったら、それは表彰ものだと心から思う。 薄汚れた三人は、歩行者天国の人波に交じって進んで行った。登り坂になっている道路をどんどん行くと、やがて市街地を抜けて道は二股に分かれているはずだった。 坂の頂上あたりで、突然前方から乗用車が姿を現し、我々の側を通ると、そのままかなりのスピードでメインストリートを走り抜けていった。あっけにとられていると、続いて一台、又一台と前の車に従って走っていく。これはいったいどうしたことだ? 「歩行者天国」はもう少し先から始まっており、ちゃんと大きな立て看板も出ているというのに……。 彼等があのあとどうなったかは知らない。どこにでも不心得者はいるものだといって済まされる問題ではない。「歩行者天国」というからには、市民は安心しきって、そぞろ歩いているのだ。そこへ車がいきなり飛び出してくるなんて誰が予測できようか。 これではまるで「歩行者地獄」ではないか。それとも「天国」へ直結しているから、やはりこれは「歩行者天国」と呼ぶべきなのだろうか。 いずれにしても、その天国だか地獄だか分からない区間を、天国にもいかずに我々は無事に通過した。 しばらく行くと地図の示す通り道は二股に分かれていた。左へ曲がると伊香保から榛名に通じる有料道路であり、直進すると中之条に至る。三人は真っ直ぐ進むことにした。 「おい、かしわ餅だ」 ミチさんが声を掛ける。この男は、目移りの激しい男である。さらに気になると取りあえず言葉を発するという癖を持っている。 ミチさんの言うとおり、道端の菓子屋の店先に「かしわ餅」が並べられている。そういえば明日は子供に日である。 「おい、懐かしいじゃないか」 こうなると、ミチさんは水戸黄門の「うっかり八兵衛」そのものだ。彼の希望に従い、三人は買い求めて、バス停のベンチに腰を降ろし食べ始めた。 「この味はちがう!」 こんどはマサさんである。まず第一に、かしわ餅の葉が違うと言うのだ。関東はこの葉っぱを使うが、本来は、○×の葉でなくてはならない。と蘊蓄が始まった。さらに、餅も米の粉を蒸したものであるはずだが、これはそうではないと言いだした。 もっともではある。大量生産をして全国の販売網に乗せる商品と、家庭で作ったものは似て非なるものなのは仕方がない。 一言付け加えさせて下さい。「梅干し」、市販のもので旨い物があった例しがない。高額のものでも同じことだ。おいしい梅干しを食べようと思ったら、自家製以外にない。仕方がないので我が家では、毎年6月に梅干しを漬けている。天日干しと、塩、シソ、だけの単純なものだが、その単純な製造方法が大量生産では無理なのだろうか? 「たくあん」はまだ市販で良いものがある。ただし、量販店の棚にある物は駄目だ。漬物屋で買うしかなく、量販店のたくあんの、三倍の値段はする。 味噌、醤油も同じ事が言えよう。大量生産によって、安価で誰もが、何処でも買えるようになったことは大変喜ばしい。しかし、悲しいかな本来の日本伝統の味が、途絶えてしまうことはやるせない。 我々は中之条に向かう道を歩いている。道は次第にカーブや起伏が多くなり、そろそろ山岳地帯に入っていることが分かる。雨は小降りになったものの、完全に晴れるような気配ではない。早くも疲れが重々しくのしかかってくる。唯一の救いは、周囲の景色が進行に応じて素晴らしさを増してくることだった。五月と言えば新緑の季節である。「目に青葉、山ホトトギス、初鰹」という俳句があるが、まさに、露に濡れた青葉は目に染みる。この俳句は誰の作かは知らないが、季語が二つ入っているが、良いのだろうか? 風景もさることながら、このあたりは水が豊富で、しかもそのきれいなのに驚かされる。家々の前には課ならず水路が通っている。おそらくその水で米をといだり野菜を洗ったりするのだろう。ことによったら煮炊きにも使っているかも知れない。 深い山からの雪解け水なのであろうか、手を入れてみるとひんやりして心地よい。 水路は所々が網状のもので区切られていて、そこには数尾の鯉が気持ちよさそうに泳いでいる。これはこの土地の特殊な事情ではなく、後背に山々を抱いた山里の麓では良くある風景ではなかろうか。 今日でこそ交通手段が発達して、物流は昔の比ではないが、人力や荷馬車に頼っていた昔の人にとっては、鯉や鮒などの淡水魚は山国の人たちの貴重なタンパク源だったのだろう。旅人の旅情を誘うなんて優雅なものではなく、日常的な貴重な栄養源であったに違いない。 登り坂がかなり続いて、息切れがしてきた。私の右足もかなり参っている。疲れてくると、とにかく寡黙になりがちだ。さらに気持ちまで滅入ってくる。まだ夕方までは間があり、取りあえずまだ元気なミチさんの出番である。 突然、「どうなってる会」の将来の抱負を彼は語り始めた。私と、マサさんも合いの手を入れる。このことを話せば、三人ともワクワクしてくるのだ。思い思いの抱負を述べていると疲れもいくらか軽くなるような気がするのだ。同時に、これくらいのことでへこたれてなるものかという気力が生まれてくる。 しかし、最終的には精神力で肉体的疲労を解消することは不可能なのである。 次へ
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