よれよれ三人旅(24)
草津から白根山、渋峠を越えて志賀方面へ行くには、いわゆる志賀草津道路を利用するのが一般的だ。一般的というより、登山道を除けば他に道はない。(あくまで当時の話しで今は知らない)志賀草津道路は、羊の腸のように曲がりくねったハイウエイである。
当然ではあるが、三人はそのルートを通らず、ショートカットで渋峠へ向かうことにした。登りは厳しいが距離的にはずいぶん短縮されることになる。五万分の一の地図に点線で示されているからルートがあることは確かである。
草津温泉の湯本の脇を通って町を通り抜け、林の中にかろうじて見いだされる道とは名ばかりの点線ルートに出る。ここで間違えたのでは問題外。念には念を入れて確認し、登山道に踏み込んだ。
時折両側から張り出した木の枝に行く手を阻まれることもあるが、落ち葉や雑草を踏みながら歩く気分は悪くない。晴天で太陽の光は眩いばかりだ。
道はゆるやかな登り坂である。所々に「芳ヶ平へ何q」とか「草津へ何q」という標識が認められる。おそらく見捨てられたハイキングコースなのだろう。最近人の歩いた形跡はまったくない。胸まである雑草が道を塞いでいたりして、しばしばルートを見失う。こうなったらコンパスと地図を頼りにするしかない。先が案じられる。
しばらく登ると、一変して急な下り坂となる。いったん谷底まで降り谷沢川を渡って、対岸の谷を登り谷沢原へ出ることになるのだ。
川の畔で小休止。雪解け水を集めた谷沢川の流れはさすがに冷たく、しかも濁りがない。
大小の岩々の間を、ある時は撫でるように流れ、ある時はまともにぶつかって飛沫をあげる。滝となって落ちるところもある。ヤマメやイワナなどの渓流釣りにはもってこいの場所に思える。ところが此処には魚は住んでいないのだ。水清ければ魚住まずの例えからではない。実は此処の水は毒を含んでいるため魚介類は棲息できないのである。「毒水」と呼ばれるゆえんであった。
手ですくってなめてみた。なるほど、苦いような塩辛いような変な味がする。こいつを飲んだら人間様でも危ない。
これまで「流れている水は飲んでも大丈夫」というのが三人の持論であった。もちろんこれは、山や島へ行った場合のことで、都会を流れている川がこの限りでないことは言うまでもない。ところがこんな山奥の清流でも飲めない場合があることを知って驚いた。科学的なことはよく分からないが、火山あるいは温泉が関係しているのかも知れない。
谷沢原にそって雑木林の中を歩いていると、いきなり幅五メートルもある大きな道路にぶつかった。こんな道は地図には出ていない。それもそのはず、目下工事中ですぐ先の林で行き止まりになっている。ブルドーザーでえぐり取られた地肌が痛々しい。自然を破壊して、この道を作ることにどれほどの意味があるのだろうか? すぐそばには志賀草津道路という立派な道がある。それでもこの道が必要なのだろうか? もちろん無いよりはあった方が便利に違いない。しかし、少しばかり便利になったと言って喜んで良いものだろうか? 当時、このような道のことは政治道路と言った。地域振興の美名の元に業者と政治家がやたらと造っていた道である。現在、道路族なる言葉が一般化している。この二十数年の間にどれほど道路が造られ生活が便利になったことだろうか? どれほど自然が破壊され財政負担を国民が負うことになったのだろう? はたして収支はどちらに傾いているのだろうか?
谷沢原を過ぎたあたりで、右も左も断崖という恐ろしい場所に出た。ちょうど包丁の刃の上を歩くように、恐る恐る歩を進める。互いを結ぶザイルなんてものも持ち合わせていない。自己責任で行くしかないのだ。そこを通過しなければ前に進めないのでへっぴり腰でなんとか通り抜けた。この尾根は現在では風化しているはずである。ああいう危険なところに橋を架ける訳にはいかないのだろうか? タヌキやキツネが喜ぶだろう。もしや年に一人や二人、人間が渡るかも知れない。
しかし何と言っても最大の利益は、橋を架けることによる経済効果である。百億円で橋を架ければ、ケインズの投資乗数理論によると千億円の経済効果が期待できる。もっとも消費性向が分からないと、この数字は架空のものになる。
やがて足下の所々に白いものが現れ始めた。残雪である。五月に雪を見ながら歩けるなんて! 三人は有頂天になる。そしてわざわざ雪の残っている部分を選んで歩く。それには気分が良いということの他にもう一つ理由がある。すでに溶けてしまったところには雪解け水がちょろちょろ流れていて、靴がどろんこになってしまう。
私はスニーカー、ミチさんとマサさんは、布製のキャラバンシューズ、登山靴なる大層なものとは大違い。休日に里山をハイキングする足下である。
しかし、その雪の上も決して安心してばかりはいられない。表面は雪でも底の方は溶けて流れている場合があるからだ。ちょうど落とし穴みたいになっていて、いきなりズブリとばかりに、膝小僧あたりまで落ち込んでしまうことがある。用心しながら歩くから、とうぜんのことながら歩行ペースは落ちる。
乾いた岩の上で小休止となった。日に照らされた岩は暖かい。濡れた靴下も乾いていく気がする。ここで何故だか缶ビールで乾杯となった。
「おい、雪解け水で冷やしたビールは最高のはずだ」
というマサさんの予測にしたがって正解だった。暖かい日射しの下で飲む缶ビールは最高。雪解け水で冷やすと、すぐにビールは飲み頃になった。冷えるのが早いこと! ワインを砕いた氷で冷やすのが納得出来る。
雪を見て喜んでいたのは最初のうちだけだった。やがてあたり一面が銀世界となるに及んでお手上げになってしまう。地図の上には点線があっても現実は白一色だ。地図も五万分の一のもので、登山地図ではない。勾配が一段ときつくなっていく……。
草津へ向かう途中で、頂上に雪を頂いた山々を遠望し、「おおっ!!」と感嘆の声を上げたとき、やがて自分たちがその雪の上を、喘ぎながら登ることになる羽目に陥るとは誰が想像しただろう。
こうなると、立ち木に打ちつけられた古びた標識が頼りになる道標なのだが、そのいくつかはすでに脱落してしまっている。突然、とんでもない方向に標識の欠片が現れたりする。我々が歩いている登山道は、どうやら、見捨てられているらしい。
仕方がないので、標識はあてにしないで、もっぱらコンパスを頼りに白銀を踏みしめながら登っていく。
冬山はおろか、登山の経験すらない三人である。時は五月、雪渓を歩くなんて最初から計算に入れていないのだから、身支度からしてなっていない。
私に至っては、ジーンズにギンガムチェックのウエスタンシャツ、足下はスニーカーという軽装である。他の二人も大差はない。
すべったり転んだり、穴に落ちたりの悪戦苦闘を繰り返しているうちに、下半身はずぶぬれとなった。足の先は凍るほど冷たい。
このあたりからようやく三人は「これは大変なことになったぞ!」と気づいた。もう疲れたの、足が痛いのと言ってはいられない。万一道に迷い、夜を迎えたなら確実に生命は無い。
こうなると素人は浅はかなもので、なるべく直線的に登ろうとする。したがって体力的にも技術的にもますます壁にぶち当たってしまうのだ。
こんな調子で頂上まで登るのだろうかと思うと、絶望的になっていく。ここで鳩首会談とあいなった。
「いまならまだ引き返せるぞ」
「でも、この道を踏破しなければ山を越せない。歩いて日本海は無理だ」
「志賀草津道路は?」
「自動車専用道路だぞ」
「でも歩けるはずだ」
「なんとか、このまま、日の暮れる前に頂上に着けないだろうか?」
「出来ると思うか?」
その時、地図を見つめていたマサさんが静かに言った。
「おい、この近くに芳ヶ平ヒュッテというのがあるぞ」
確信に満ちた声だった。そういえば、草津を過ぎて最初の頃は、芳ヶ平という標識があったことを思いだした。二人も賛成して取り合えず、芳ヶ平を目指すことにした。ヒュッテにたどり着けば、後の展開はなんとかなるだろう。最悪の場合はそこに泊まればよい。そうと決まれば、いくらか気が楽になる。取り合えず身近な目標が決まったのだ。
気は楽になったが、迷わず芳ヶ平に行ける自信はない。山の形から現在地点を慎重に判断し、コンパスを頼りに歩き始める。
白銀の世界を、コンパスを頼りに歩くものの不安は増していく。目的地に向かっているという確信がもてない。黙したまま歩を進める。「あっ!」と声を上げるときは、雪の落とし穴に落ちたときだ。真っ白に被われた台地の上の青い空が眩しい。これで雨でも降ったならどうなるのだろう? いや、雨ではなく雪か……。
「おいっ!」
ミチさんが指さす。私とマサさんも気づいた。
「足跡だ!」
「確かに、しかも熊じゃない!」
人間の足跡を発見したのだ。それもかなり新しい足跡である。誰か一人で先に登った者がいる。しばらくその足跡に従って登っていくうちに、これはかなりの達人だという事が分かった。なぜなら、歩の進め方にまったく乱れがない。強弱も歩幅も一定で見るからに確信に満ちている。しかも、途中で立ち止まった形跡すらない。無理のない最短コースをとっているのも心憎いばかりだ。
我々にはそれが、神の足跡に見えてきた。菅原神社発見の経緯からしても、そう思わざるを得ない。この足跡を信じよう。我々には神様がついているのだ。もうなまじコンパスんか使わないで、ひたすらこの足跡に従って歩いていこう。そう思い込んだら何も心配することは無くなった。途中適当に小休止を交えながら淡々と歩いていく。しかし、この足跡には休息した気配さえなく、等間隔で続いている。
この足跡が突然消えて無くならない限り大丈夫だ! いや決してそんなことは起こらないはずだ。何と言っても、三人は神の子なのだから。
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