エッセイ<随筆>




 悲しい現実(地球と人類) 

 この表題はアル・ゴア氏に敬意を表して付けました。


<Fついでに戦後の社会変動について>

 戦後の社会変動とは、身近な具体的な問題としてどのようなものだったのだろうか。
 話しはもとにもどる。あっちへ行ったり、こっちへ来たり、好き勝手に出来るのが随筆の良いところだ。このHPの掲示板にissei君が書き込みをしてくれた。彼とは同郷であり、私が武道の先輩になる。よって、君などと言っているが許して下さい。
 さて彼は、この連載の「A私ごとですが」を読んで、そこに書いてある、当時の下関のことを全く知らなかったと言っていた。私とて戦前のことは全く分からない。同じことである。しかし、本当にその時代のことを理解しようと思ったならば、できるだけその当時の社会を謙虚に理解するように努めねばならないと思う。
 issei君を念頭に、戦後の社会の変遷を概観してみようと思う。

 敗戦後、1951年のサンフランシスコ講和条約において日本は主権を回復し、1960年の日米安保条約の改定により、我が国は東西対立の西側に組み込まれるとともに、対外的、国内的に秩序の不安要素は少なくなった。
 ここから、日本は経済活動に邁進することになる。ひたすら、生活水準の向上を目指した。いわゆる高度経済成長の始まりである。資本は国際開発銀行(世界銀行)や米国、技術も米国から導入し、経済基盤である鉄鋼、造船などの重化学工業、そして、繊維産業、電気産業、自動車産業等が中心となって日本経済を牽引した。とくに輸出産業は花形であり、総合商社は世界を股に掛けて活躍した。三井物産の海外情報網は、日本国外務省の情報網を遙かに凌いでいると聞いても、不自然には感じなかった。

 私が小学校の時は「日本には資源がありません。しかも人口が多いので、原料を輸入して加工し、製品を輸出する“加工貿易国”にならなければ生きていけません」と先生からさんざん教わった。加工貿易立国論など最近はまったく耳にしない。
 経済発展の端緒に置いて、そしてその後、常に不足する労働力の供給源が農村だったのである。驚く無かれ50年間で、農村人口の46%が第二次産業、第三次産業に労働者として移っていった。人数にすると数千万人単位である。世界史のゲルマン民族大移動を遙かに凌いだ人間の大移動が日本国内で起きたのである。
 それは、革命と言ってよいほど社会の変革をもたらした。これ以上は、この随筆の趣旨から外れるので止めておく。

 さて、それで農村は荒廃したか。否、村落共同体は激変し、里山は荒れたが、自然そのものは荒廃していない。人が少なくなると自然は蘇るのだ。ただ、人間にとって都合の良い自然でないだけである。ただ例外は、過剰な植林とその後の放置が上げられる。
 農村から都市への労働力の供給以外に、もう一つ大きな労働力の供給源があった。女性の社会進出である。それを促したのは、インフラの整備と電気製品を筆頭とする、家事用器具による家事労働の軽減化である。考えても見よ、私の幼い頃には、JR下関駅から歩いて二十分の住宅地には、水道が引かれてなかったのである。燃料は薪と炭であった。
電気冷蔵庫、洗濯機、電気釜、掃除機、そしてガス風呂、電話が無い生活を想像してみて下さい。どうです? むろん電子レンジなど有りはしなかった。どういう訳かトースターはあった気がする。
 夫婦に子供がいる場合は、妻は専業主婦であらねばならなかった。これは社会制度というより生存にかかわる問題であった。そうでなければ生活できないのだ。そして、子供を育てる、これも又生存に関わる問題であった。年金の無い世界では、年老いた親は、一部の富裕階級を除き、子供の援助に頼らざるを得ないのだ。実質的な意味で「子は宝」なのである。

 私が、小学校入学前の実話である。我が家には父の妹である叔母が同居していた。いわゆる小姑である。彼女が高校を卒業して、銀行に勤めると言い出したことが大問題となった。
 祖父を前に、父の姉の伴侶である二人の伯父が集まった。そして、祖父と伯父二人で叔母を説得したのだ。
「いやしくも、谷家から職業婦人を出すわけにはいかぬ!」
 と言い張ったのだ。信じられますか? くれぐれも言っておきます。我が家はサラリーマン家庭で、先祖は漁師。江戸時代の身分制度から言えば百姓以下である。この当時は、ごく普通の家なのである。それが、職業婦人……とは。 
 叔母は結局、和裁、洋裁を習い始め花嫁修業とあいなった。このとき、叔母を応援したのは私の母親だけだった。彼女は結婚前は小学校の教師をしており、死ぬまで社会進出をたくらんでいたが、比較的早く死んだため、夢を果たせず専業主婦のままその生涯を閉じた。
 一方の叔母は、子供が手を放れてからは、株式投資で活躍し、かなりの収入を得ることとなった。二人とも生まれたのが少し早すぎたのかもしれない。

 私の幼き日の、母の家事労働を覗いてみよう。小学校入学前であったがよく覚えている。昭和20年代の後半の話しである。
朝、トントンと俎板を叩く音で目が覚める。起き出していくとカマドでは釜が蒸気を噴いている。もうすぐご飯が炊けるのだ。カマドの燃料はむろん薪である。消し炭で火を付けたであろう七輪には鍋がかけられている。今切っている野菜は味噌汁の具だ。すでに沸いているヤカンは側にある。冬は、この時すでに火鉢には火が入っていた。
 瓶の水は、母が階段を下り、井戸から汲んできたものだ。我が家の井戸が、手押しポンプになることはなかった。井戸と住居が離れすぎていたのである。したがって井戸はバケツを、つるべで汲み上げるものだった。汲み上げた水を別の大きなバケツに移し運ぶのである。覚えているが、五右衛門風呂に水を張るのには、バケツ7杯を必要とした。
 母の格好は、姉さん被りに、和服。その上に割烹着である。父を送り出した後は、祖父は作業部屋で網を綯う。内職で漁網を作っているのだ。祖母は畑仕事に出て行く、彼女の作業着は、モンペと着物である。
 母は、食事の後かたづけをして、食器を洗い。又水を汲みに行く。今度は掃除である。箒ではいた後に、雑巾掛けだ。

 一息つく暇もなく洗濯が始まる。盥に洗濯板である。その前に残った米粒をこねて、水を足し糊を作らねばならない。ワイシャツの襟や袖、浴衣に使う糊である。そうこうしているうちに昼食の準備の為に、七輪で湯を沸かすことになる。
 この洗濯が大変である。和服の場合は糸をほどき、布にして洗う。専用の板に張り付け、あるいはこれまた専用の竹ヒゴで伸ばすのだ。乾いた後は布を縫い直し和服に仕立てる。これは言葉として残っているつまり「洗い張りと仕立て直し」である。
 浴衣など度々これをやらねばならなかった。洋服も和服ほどではないが、裁縫仕事がまっている。私の洋服は、けっこう母の手縫いの物であった。つまり、昭和二十年代の家庭の主婦にとって、和裁と洋裁が出来ることは必須の条件であった。
 日本の着物文化は消滅した。もっとも晴れ着としての和服は別である。私が言う着物文化とは、日常的に普段着として和服で過ごす生活習慣のことである。「洗い張りと仕立て直し」が出来ない限り無理である。 

 父親は外で稼いでくる役目だ。企業もそのことは承知しており、家庭を持った男性労働者には、家族を養えるだけの賃金を支給した。だいぶ改善されて来てはいるが、その名残が、現在に於ける男女の賃金格差を生んだことも事実であろう。
 昭和三十年代までは「自分の力で家族を養えない男は、人間の屑だ!」と糾弾されたものである。近隣や職場で軽蔑されることになる。妻が外で働き家計を助けることは、夫にとって社会的恥辱であった。
 ある意味で今日の社会は、男性にとって楽になった面が大いにある。余計なことだが、責任感の重圧から免れると、女性は元気で溌剌となり、男性は不甲斐なくなる傾向があるような気がする。 


 さて、戦後の日本の進路を決定付けたのは、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の改定だったと前述した。この二つの決定はトップダウンでなされた。
 マクロの政策決定が、ボトムアップでなされることはまずない。残念ながらそれが現実といえよう。その意味では、結果的に、戦後の日本を導いた政治は、問題は多いものの差し引き間違ってはおらず、プラスであったと認識している。
 開発経済学では「トリクルダウン」という言葉がある。経済発展がある場所で起これば、貧困層の生活も豊かになるという理論だ。必ずしも現実はそのようになってはいないが、決して間違いではない。
 これが、我が国ではじつにうまくいった。日本は成功した社会主義国家だという皮肉な言葉があるほどである。と言うことは、他にトリクルダウンを成し遂げた社会主義国が無いと言うことになるのかもしれない。

 今日の日本社会の現状に対し、所得格差の問題が大きく取り上げられている。先日、テレビを見ていると、“ジニ係数”の話しをしていた。バブル崩壊後、2002年までのジニ係数のグラフを持ち出し、いかに格差が進んできたかと解説をしていた。一見なるほどと思わせるものがあり、間違った数値ではない。しかし、問題はそう単純にはいかない。
 そもそも、ジニ係数とは、社会における所得配分の不平等さを計る指標で、1936年、イタリアの統計学者ジニによって考案されたものらしい。理論的な面はいまいち理解できていないが結論だけをあげてみる。
 世界銀行の2005年の発表によると、日本は主要123カ国のなかでは2番目、世界でもトップクラスの格差のない社会らしい。ちなみに1位はデンマーク、3位はスウェーデンである。
 格差のある方からの順番でいくと、日本は122位ということになる。ブラジルは8位、中国は35位、アメリカは49位、イギリスは73位、インドは92位、ロシアは99位というところである。

 ちなみに格差のない国のベスト5の総人口を見てみよう。
1位 デンマーク  人口    543万人
2位 日本   人口 12,765万人
3位 スウェーデン 人口 904万人
4位 ベルギー 人口 1,041万人
5位 チェコ 人口 1,022万人
 これって無茶苦茶すごい数字でしょう。例えば人口1,000人の村の所得を平均化するのと、人口10,000人の町の所得を平均化することの困難さを考えてみて下さい。
 これらの数字からみると、日本は所得格差のきわめて少ない社会だといえるだろう。成功した社会主義の面目躍如たるものがある。

 しかし、ここまで所得格差が少ないと、逆に問題が生ずるのではあるまいか。デンマークやスウェーデンなど北欧の国々は、所得の平等性を維持するために、所得の70%以上を税金、社会保険料として負担を国民に強いている。これまた、結果的に、すべてを個人が負担することになるのである。
 北欧では働く世代から70%以上の税金と社会保険料を取り、豊かな老後生活を送っている。それで国民が満足しているなら、はたが文句の言える筋合いではない。
 しかし、還暦を1年後に控えた私は思うのである。
「何を考えてるんだ! 人の一生は老後の生活の為だけにあるんではないぞ!」 

 日本の場合は、懲罰的いってもよいほどの、累進相続税、累進所得税で所得の平等性を成し遂げている。そして今日、北欧も日本も現在は、行きすぎた負担に反省がなされ、租税については軽減の方向に向かっている。なぜなら、優秀な労働力や企業が海外に流失し、国の発展エネルギーがなくなり、何れは衰退に向かうからである。これまた長期的な経済問題である。そうなっては元も子もない。日本は言語という障壁があるが、北欧は深刻な状態と聞いている。
50万円の月収で手取りが15万円なら、私だって国を出て行くぞ!

 ただし、あくまでもこれはマクロの視点である。ミクロの視点に立てば、日本に所得格差は広がり、社会問題になっていることは事実である。しかも、その格差は一部の世代で顕在化している。バブル崩壊後の求人が落ち込んだ時期にあたり、運が悪いといって済まされる問題では無いだろう。自己責任とは言えない部分である。
 派遣社員、フリーター、若年層の就職氷河期の落伍者問題など改善すべき点はたくさんあり、その他いわれのない差別に苦しんでいる人々の救済は急を要する問題であろう。それに答えるように、官、民、それぞれ取り組みが始まっている。そこを掘り起こせば、新たな労働力も確保出来るのですよ、経営者の皆さん。まさに、この件に関してはミクロの問題であり、対策もミクロでなされるべきだ。
 企業の目的は利益を上げることである。つまり多く納税することになる。企業の社会的責任の最も重要なことは、雇用の拡大であると私は思う。
 特に若年人口が減少傾向にある日本では、労働力不足はそのうち顕在化すると思う。海外よりの労働力の受け入れも真剣に議論される日もそう遠くはないはずだ。IT関連だけではない。医師、看護士、教師、建築士……広範囲に渡るはずだ。日本に行って農業経営をしよう! という看板がフィリピンあたりで立つかも知れない。明治時代の北海道開拓そのものである。

 
社会の経済変動は人間の意識を変えていく。より高い所得、生活水準を目指すのにともない、それ以前には考えも付かなかった地点にまで至ることがある。それに対し、思想なんてものは、自分の感情、行動に対する言い訳であることが多い。
 かくして、日本は高度成長を成し遂げ、2004年の統計でいくと国内総生産は米国に次ぎ第2位、一人あたりの国民所得も米国に次ぎ第2位(GDP15位以内の比較。それ以外の小国も含めれば、ルクセンブルグは日本の倍の個人所得)という、食うや食わずの昭和和二十年代では考えられない地点にまで到達した。
 しかし、それに対する負債も負うことになった。公害問題である。水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息、光化学スモッグ、河川や海の汚染……。
 今日では、さすがに高度成長の負の遺産が反省され、環境の浄化は進んでいる。蛍は川に帰ってきている。メダカ、ドジョウもそのうち帰るであろう。最後にミナミヌマエビが帰れば一応一段落というところか。
 公害被害者の救済も十分とは言えないかもしれないが、行政やNPOの活動などで、以前より良くなっていることは事実であろう。
 台湾や韓国も同じ道をたどった。いまや、高度成長期にある中国の環境悪化が進行し、公害も酷いことになっていると聞く。しかし、中国政府も最近では公害問題に積極的に取り組んでいる。

 以上で、多少はissei君の理解の手助けになっただろうか? 戦後の社会変動はあまりに大きく、現在では専業主婦の意味合いも変わって、以前の状態は理解しようと努力しなければ無理になっている。それらの件に関し、具体的、体験的な問題から書いてきたが、意は尽くせたとは、とても言えない。だって、テーマが無茶苦茶大きいんだもの。




                        
 
 
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