エッセイ<随筆>




 悲しい現実(地球と人類) 

 この表題はアル・ゴア氏に敬意を表して付けました。


<Gなぜ森林にこだわるのだろう?>

 たぶん、ほとんどの人は森の緑を見て心が和むようだ。それは、DNAにまで刻み込まれた遙かな過去の記憶ではなかろうか。人類が栽培農業を始めたのは、おおよそ1万年前である。それ以前の180万年は、森に寄生して生きていたのであるから無理はない。
 では、その森とは何なんだろうか、むろん森の主役は木である。しかし、高木だけではなく、低木、下草、菌類、ミミズ、そして土の中のバクテリアが共生している空間なのである。これらは微妙なバランスを持って成り立っている。これを多層群落の森ともいう。そして、あらゆる動物の生命を育んできた。「多層群落の森」この言葉が環境問題で森を語るときのキーワードになると思う。
 また、森林は、メンタルな部分だけではなく、農業は無論、人間の生活に直接的な影響が大きいのだ。そして人間生存のあらゆる面に関わってくる。林業とそれに繋がる、建築用材やパルプの紙製品だけではない。取りあえず森とはなんだろうという概観から始めよう。

 @先カンブリア時代(38億年前から二億七千年前)古生代のカンブリア紀以前を言う。
最古の生物、バクテリアが見つかったのが38億年前である。 
 A古生代(五億七千万年前から二億五千万年前)の植物は藻類、シダ類で、何億年に渡って植物は酸素を地球に供給し続けた。今日の地球環境の基礎作りの時代だとも言えよう。なお、古生代の終末は、海生種の96%、全生物の50%が絶滅するという最大の破滅に襲われたらしい。以後も大絶滅は何度も起こっている。(一説によると全生物の99%)
 B中生代(二億五千年前から六千五百万年前)の地上は暖かく、ソテツ類、シダ類が繁茂し森が形成された。古生代、中生代の森林が化石化した物の一つが石炭である。石油はどうやら海藻などの海洋性起源の説が有力である。
 C新生代(六千五百年前から現在)は顕花植物が繁栄し、「シダの森」が「針葉樹の森」に変わり、広葉樹も出始めた。現在の森林はここから形成されていった。
 新生代の最後、つまり一万年前から現在までの時代が、完新世であり最後の氷河期が」去った後、人類は狩猟採集から森を切り開き定住と農耕を始めた。これが人類による森の破壊の始まりだった。

 古代文明は、森を破壊することによって発展していった。しかし、同時に土壌破壊を引き起こし、滅亡していった事は前述した。
 森の重要性は、生活用材としての用途だけでなく、森林浴という言葉もあるように、木立があれば気持ちがよい。最近では、防音機能、水や空気の浄化作用、災害防止機能で注目を集めている。さらに地球温暖化の元凶といわれている二酸化炭素対策に、森は無くてはならない要素である。

 植物は我々が吸っている酸素ををつくりだすだけでなく、光合成、つまり太陽光のエネルギーを化学エネルギーに変換する。
 具体的には、緑色植物、藻類など葉緑素を持つ生物が光のエネルギーを利用して、二酸化炭素と水から、炭水化物をつくりだす。そして、この炭水化物を我々は消費して命を繋いでいる。森が造り出した有機物は無数の微生物によってミネラルに還元され、水に溶けたミネラルは植物が根から吸収し植物の生育に使われるという生態系を持っている。人間を含めた動物は、この植物循環の寄生者に過ぎないといえる。

 ドイツの生態学者ティーネマンは、生物を三つに分類している。
@無機物から有機物を合成する生産者(植物)
A有機物を消費する消費者(動物)
B有機物を分解する分解・還元者(微生物)
 地球の植生は、@とBで成立する。Aはそれなりの役目をになっているが無ければ無くてもそれほど問題はない。つまり、動物は@とAによって生かされているわけである。さらに動物の中でも人類、この寄生者が一番のさばっている。まさに、人類のありさまは、森にとって軒先を貸して母屋を取られたといえるだろう。
 結論として言えることは、森は、我々人間を含めたすべての動物にとって命の糧であり、多層群落の森に生かされているのだ。まずこのことを認識すべきだろう。

 我が国における、森林の主役である高木についてもう少し述べてみたい。
@針葉樹
建築用材として最適。成長が早く、したがって利用できる期間も早く、市場価値が高  い。大型動物が住むのに適している。
A広葉樹(落葉広葉樹)
  人間にとって自然の恵みが最大であり、縄文文化を支えた森である。薪炭や建築用材  としても使え、保水作用もある。
B照葉樹(常緑広葉樹)
  土壌流出を防ぎ、保水作用が最大。強く根を張るために地震の伴う崖崩れや、地割れ  にも効果がある。また、樹木自体に水分が多く火災の防御になる。

 日本列島の針葉樹林はほとんどが人工林である。天然林は北海道の一部と本州の高地に見られる位だ。しかし、最近は照葉樹林の防災性が広く認識されてきて、植樹が多くされている。残念なことにその統計資料があったのだが、探しても見つからないので曖昧にしておく。なお、統計資料の多くは、針葉樹と広葉樹になっており、照葉樹は広葉樹に含まれ、独自の分類があまり見られない。

 さて、冒頭に「多層群落の森」という言葉を述べた。この森の中で樹木はお互いに競い合い、我慢しながら共生して命を育んでいる。
 しかし、数百年、千年以上にわたり家畜を放牧し続けると森は破壊され単層群落の森になってしまい、さらには生態系が壊れ草原になってしまう。そして、この草原なるものが厄介なのだ。つまり、人間の感性を裏切ってしまう。
 私は下関に住んでいた頃、よく旅行で九州を訪れた。その中で景色として最高だったのが、久住高原から阿蘇にいたる「やまなみハイウエイ」である。その景観たるや素晴らしいにつきる。それもその筈、「阿蘇くじゅう国立公園」なのだから無理もない。
 大分県からのドライブは目を楽しませ、感動をあたえる。なだらかな山並み、緑あざやかでどこまでも続く草原、アクセントのよう低木が茂っている。そして、行き着く先が阿蘇の草千里(草千里が浜)である。阿蘇山を背景に、柔らかな牧草を食む、馬と牛。梅雨時や雨が降った後には2つの池が出現する。
 旅行好きな私の知人など、「ずいぶん各地を旅行したが、やまなみハイウエイにまさる風景に出会ったことはない!」と断言した。
これほど美しい風景が、なんと信じられないことに土壌破壊が進み、植物層の貧困な荒れ地だというのである。私は、行ったことがないが、信州の「美ヶ原」と土壌破壊の日本一の座を争っているらしいから驚きだ。
 植生の貧困な土壌は、見た目は豊かに見えてしまうのである。視覚だけではない、嗅覚も皮膚感覚も環境の現状認識を裏切ってしまう。これが理解出来るには、近代科学の発展を待たねばならなかった。

 この草原の土壌浸食がさらに進むと、イングランドやスコットランドにみられる草原とブッシュになる。そして「矮生低木疎林」と呼ばれる状態になってしまう。英語では「ヒース」と呼ばれ棘があったり匂いがきつかったり有毒であるため、家畜が食べないために生育できるのだ。
 イギリスはまだ良い、降水量の少ないヨーロッパ、アフリカの地中海地方や、中国内陸部では棘のある矮生低木疎林の群落さえも少なくなり、裸地化、半砂漠化している状態である。
 今や最も、この矮生低木疎林になる恐れが心配されているのは、オーストラリアとモンゴルの草原である。

 ここで一つ疑問。土壌、気候、特に降水量の関係から、最初から草原として生態系が成りっている場所があるではないか? 
 その通りだと思う。有名なところでは、アフリカの熱帯サバンナ、北アメリカのプレーリー、グレートプレーンズ、南アメリカのパンパ、グランチャコ、などがそうである。北アメリカの大草原でバッファローが環境に適応し個体数が増えると草原が荒れる。荒れた草原が増加したバッファローを維持できなくなると、個体数は減少する。というある程度安定した生態系が維持されていた。しかし、ここに人間の手が入り農地になり、過剰放牧がなされると、もともと貧しかった生態系は崩壊に向かって進むことになる。本当に人間は困ったものである。現在の地球環境で、人間という動物の個体数をどの程度維持できるのだろうか? 人間はどのようなかたちで人口調整をするのだろうか? いや、させられることになるのだろうか?


 私は山の緑が大好きである。見るだけでも和むが、森林に身を置くとさらに癒される。
 そして、森は多層群落が本来の生態系なのである。森を守るのはそのことを念頭に置かねばならない。単層群落の森は生命の営みの循環に不備が生じ、崩壊への道をたどることになる。
 日本における、針葉樹林の人工林が単層群落の道をたどりつつある。なぜそうなったかを、次項から述べていこうと思う。





                        
 
 

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