悲しい現実(地球と人類)
この表題はアル・ゴア氏に敬意を表して付けました。
<I森林伐採と環境問題>
二酸化炭素を主たる原因とする地球温暖化現象に対して、世間は、外国の森林にも注目している。またG項で述べたように日本人の森林に対する感性の部分の思い込みもあると思う。これは、必ずしも普遍的な感性ではなく、草原や砂漠、雪原や氷山に思い込みのある民族もいる。普遍的な感性とやらが、あるということ自体も疑わしい。
さて、海外の森林に対する日本経済が与えた影響にかんして、私なりの意見を言わせてもらおうと思う。木材の利用はすべからく経済問題に帰結するのである。そして、環境問題になっていく。そもそも人間も活動のすべてが、環境問題を引き起こすといった方がよいだろうが。
まず、以下の木材需要供給量の統計資料を見て頂こう。これらは各製品を丸太材積に換算した数値である。
2004年の木材需要供給量(丸太換算)は総合計で91,438千立方メートル。
内訳は、薪炭材1.1%、しいたけ原木0.7%、製材用38.3%、合板用15.3%、パルプ・チップ41.5%、その他3.1%となっている。
同じく、半世紀前の1955年は65,206千立方メートル。
薪炭材30.6%、製材用46.5%、合板用3.5%、パルプ・チップ12.7%、その他6.7%。
1995年は113,698千立方メートル。
薪炭用0.6%、しいたけ原木0.9%、製材用44.3%、合板用12.6%、パルプ・チップ39.5%、その他2.1%。
これから分かることは、木材の総需要供給量は1995年を最大に、緩やかな減少傾向にあることである。人々の眼が、森林保護に向かうことになったことが大きい理由だと考えられる。そして、用途別に見るならば当然ながら薪炭用が極端に減少している。反面、紙の原料である、パルプ・チップの需要が伸びている。
その他として分類されている項目には、加工材、電柱、くい丸太、足場丸太が含まれている。
これはあくまでも日本の総需要供給量であることを断っておこう。世界的に見れば、発展途上国を中心として、世界のエネルギー源の約半分が薪炭材に依存しているのである。また、熱帯雨林減少の原因の45%が、焼き畑農業によるにことも忘れてはならない。
さてここで話しが変わり、日本の事情になる。思い出して欲しいのは、十数年前の大騒動である。熱帯雨林の過剰伐採がマスコミで喧伝された。その指摘自体は正しいと思う。何と言っても当時の熱帯雨林の破壊は凄まじかったようである。その反省が、木材の総需要量を抑える方向に向かったのは、統計資料からみて確かである。しかし、そこで何が行われたのか。
諸悪の根元として、「割り箸」と「爪楊枝」が上げられ非難を一身に受けることとなった。何時もと同じスケープゴートである。
森林破壊の元凶であると、新聞、テレビが連日に渡ってたって報道した。非難が集中した「爪楊枝」業者の悲鳴があがった。
「森林破壊の元凶と言われてもこまる。私は零細業者で、廃材、間伐材を集めて細々と爪楊枝を製造している。立派な木材などでは採算が取れないのだ」
なんで、こんなことになるのだろうか? 零細企業の集団が森林破壊の原因と決めつけたのはマスコミである。
割り箸となると、問題は大きくなる。しかし、割り箸が熱帯雨林の伐採には直接関係はない。なぜなら、熱帯樹は割り箸には不適で、輸入物は大部分が中国産である。しかし、中国の森林だとて同じ事ではある。
さて、ではどの位消費されているのだろうか。製品換算になるが、一日の使用量が150万膳、重量にすると12トンになってしまう。年間では4,380トン、これは果たしてどの程度の環境破壊を生んでいるのだろうか。
これに関する論争もある。一方は「割り箸は森林破壊を促進して環境を破壊している」であり。もう一方は「割り箸は低利用材や間伐材を利用して、林業を促進し森を守る」という意見である。
私としてはこの論争に加わる気はない。以下のデーターを私の意見として言わせてもらう。
日本全国の日刊紙の総発行部数は、一日約5、231万部である。(2006年)
一部あたり40ページ、新聞紙10枚とすると、製品重量換算で一日、約1万トン、年間365万トンになる。折り込み広告を加えると500万トンになるであろう。これって何なんだ! あれほど、割り箸に集中砲火を浴びせた新聞が、1,000分の一ほど紙面を節減し折り込み広告を減らせば、割り箸の木材量を補填できるのである。これは、新聞が三年に一日だけ休刊日を増やせば達成できるのである。
まして、爪楊枝にいたっては、一万分以下である。三十年に一日だけかよ! 零細爪楊枝業者を新聞が泣かせる理由は全くなかろうと思うのだが?
さらに新聞は、その製品製造にどの位の電力、水、化学物質、薬品を使うのであろうか。
テレビの使う電力量、ガソリン量は、いったいどの位になるのだろうか? あんがい、全テレビ局が一日5分間、放映時間を短くすれば、割り箸や爪楊枝以上に環境悪化を防ぐことに寄与すると思うのだが。
ちょうどその頃、再生紙が大きな話題になった。古紙を集めて再生紙として再利用をする方法である。名刺やパンフレットなどに、再生紙と表記することが流行にもなった。そうまさにこれは流行であった。
私もこの運動には賛辞を送った。一般の風潮とは少し異なった視点からである。
知って欲しいことは、当時は確実に、紙を再生する方が環境悪化要因だったのである。つまり、再生する為に水と電力を使い、薬品を使うのである。短期的に見れば明らかに環境にはよくなかった。しかし、おそらくは今日、技術の進歩に従い古紙再生は、採算が取れ、さらに環境に優しくなっていると思う。技術の進歩となそんなものであり、大学の研究室ではなく、民間企業の採算ベースに乗せる努力が技術の進歩を牽引するのだと思う。
同じ問題が、今日のペットボトルに於いていえる。ペットボトルの回収率は世界最高で、回収されたペットボトルの10%が再利用されているらしい。この再利用がくせ者で、現在のところ単に焼却するより明らかに環境に悪いのである。これは常識として世間が認知しているはずだ。つまり我々は、ペットボトルを分別し、再利用に協力しながら環境悪化のお手伝いをしていることになる。しかし、古紙再生と同じように技術の進歩によって、後年にはめざましい成果を上げると信じている。これは、研究室のみの対応では無理である。企業が営利目的で必死に効率化を進めるからこそ未来が開けるのである。
環境問題とは、必ずこのようにトータルでみなければ解らない、ということを認識する必要を感ずるのだ。
割り箸をやめようという運動があることは知っている。割り箸の使用を中止すればその分森林資源が守られるということは理解しやすい。しかし、中国の直接雇用に関わるだけでなく、最近の中国における植林運動の、廃材、間伐材を利用することによる経済効果にも考慮する必要があろう。中国の森林が守られる反面も確かにあるのである。
また、プラスチックや鉄などの、割り箸でない箸を使えば、石油採掘、鉄鉱山採掘の問題と、製品にするためのエネルギー問題だけでなく、使用した箸は、当然洗って何度も使うことになる。その際使用する水と洗剤、そして電力による環境への影響も考慮しなくてはなるまい。
割り箸はまだ良い。もっと深刻なのは爪楊枝である。国内生産の約50%は、河内長野市の地場産業として作られている。これも、割り箸と同じく国産品は全てが、廃材と間伐材を材料としている。
では、木材の変わりに化学合成物質で爪楊枝を作ることはどうなのであろうか。さらに、トウモロコシを加工して爪楊枝がつくられている現実もある。そのさい、どのぐらいのエネルギーを消費するのだろうか。さらに、トウモロコシは穀物の中で最も土壌崩壊を引き起こす作物であることは忘れてはならない。トウモロコシで作られたアルコールをガソリンに混ぜて使うことは、はたして環境に優しいのであろうか。
現在は環境には悪くとも、将来的に技術の進歩が問題を解決する例もまた多い。技術の進歩と共に、環境問題は常にエネルギーの問題になることも忘れてはならない。
あえて言わせて頂くと、現在もっともクリーンで環境に優しく、資源も豊富なのは原子力エネルギーである。しかし、大きな問題がある。
原子力エネルギーの問題の一つは、核拡散である。核爆弾の保有国が増加してしまうということである。これは、実に困った問題である。
後の項において述べる予定であるが。国家というものは、現代に於いて人間に対して合法的な生得与奪の権利を持った組織である。そして、既得権の塊であり、それを守るのみならず、自らの権益を伸張する宿痾を持っている。それ故、この国は核爆弾を持っていいが、この国はいけないとは本来言えないのである。そんなものは大国のエゴだとも言える。
例えば中国は大量の核兵器を保有している。では、日本が核兵器を保有することを中国が絶対悪だと言いうる論理が成り立つのだろうか? 日本はアメリカの核抑止力に守られているから必要ないというのとは別の次元でのことである。
中国が持つなら、台湾、北朝鮮、韓国、インドネシアが持ってはいけないという、本質的な理由とは? 核兵器の管理が出来ないからなのか? ならば、日本の政情は中国より安定しているぞ?
核拡散防止条約というのは、持っている国は仕方がないが、これ以上核を持つ国は増やさないぞということである。現実問題として、それは、それで良いと私は思う。ただ、国家というのは既得権益を守る、化け物だと思うだけである。
もう一つは、原子力エネルギーは、まだまだ技術的に未熟なことである。原子力エネルギーを安全に使用するには解決すべき問題は多い筈である。しかし、感情的な世間の白眼視のおかげで、原子力関係を目指す優秀な若者がほとんどいないという。現在、原子力発電に対するノーハウは政府と事業団に限られ、理論的な問題を提起する能力のある人間は、学会はむろん、特にマスコミ界に於いては皆無という状況になっているらしい。これは本当に不幸なことではあるまいか。なんと、その懸念を政府発行の原子力白書が書いているのである。建設的な批判を欲しているからだろう。
マスコミ界からも専門的な知識で批判する傾向が出て欲しいものである。確かにマスコミは、販売部数を伸ばし、視聴率をあげ利益を生まなければ、組織として存在できない。
しかし、なぜ組織として存在することが社会にとって必要なのだろうか?
冷徹な社会批判、事件の報道により社会的認知を広めるということこそが、マスコミのアイデンティティであり、使命ではあるまいか。たんなる受けねらいの、感情的な反対論なんぞは聞きたくもない。
GHIと三項に渡って私は、森と木について書いてきた。以下の文章で森と木については終わりにしたい。
前に私は、地球は一つだが、世界は64億あると書いた。小さな爪楊枝の問題が、森林、水、エネルギーとすべての問題に関係してくるのだ。まさに地球全体にかかわる。単独ではとても考えられない。そして、視点は64億ある。その中のわずか一つの視点としてこの文章を私は書いているにすぎない。
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