悲しい現実(地球と人類)
この表題はアル・ゴア氏に敬意を表して付けました。
<J水産資源と漁師>
農業、林業ときたら次は水産業でしょう。これで、第一次産業が揃うことになる。人類が最も昔から営んできた産業である。
水産業に関しては、今までと趣を変え直接環境問題に触れることなく、私の体験を中心に述べていきたい。
さて我が国は、四方を海に囲まれながらも海洋国家とは言えない。海洋国家とはいろんな定義が出来ると思うが、私は海洋交易に生存のかなりの部分を負っている国家だと思う。幸いなことに我が国は有史以来、人間の生存に必要な自然に恵まれ、海外交易が生存の必須条件ではなかった。
古来から、唐、百済、渤海などと往き来はあったが、それはあくまで情報収集の為だと言えるだろう。水がふんだんで、物なりがよく、海の幸に恵まれている閉鎖社会だったと言っても過言ではないはずだ。このことは、日本人のパーソナリティーに決定的な影響を与えたと思う。
今日では、やれボーダレスだのグローバルだのと、喧しい限りであるが、考えてみれば、今や我々は、古代より江戸時代までの日本以上に、地球という閉鎖社会に生存していると言えよう。ことを人類は認識している。この認識するという点がポイントである。認識のないところには、往々にして実態が存在しない現象が出現するからである。
さて、書き出しはいささかおかしくなったが、表題にそって書いていこう。あえてこの項を、水産資源と銘打ったのは、貝類、海草類、淡水魚も含めるためである。
我が国は水産物に対する嗜好は強いのに、水産業に関しては、意外に国民の関心が薄いのである。2003年の統計では、一人あたりの魚介類消費量は世界一であるに拘わらずである。第一の原因は漁業就業者が少ないためであろう。
現在、我が国の漁業就業者数は、2004年11月1日時点で、231,000人であり、十年前の1994年より82,000人減少している。実に10年間で26%の減少である。しかも、就業者の高齢化は進んでいる。
これは、全就業者数6,329万人の0.4%を占めるに過ぎない。
1984年の漁獲高は1282万トンであり、自給率100%であったが、2004年は445万トンで、自給率は49%となっており、半分以上を輸入に頼っている。
その最も大きな理由は200海里漁業専管水域の設定により、漁場が縮小されたことである。よって、遠洋漁業、沖合漁業の落ち込みが激しい。
では、養殖業(海面、内水面)の収穫高はどうなっているだろう。2004年で123万トン、最高の1990年の139万トンから横ばいか低減傾向にある。
収穫高のベストスリーは、のり類36万トン、かき類23万トン、ホタテ貝22万トンである。
統計資料は一見無味乾燥の如くであるが、私は結構好きである。数字から見えてくるものがあり、また愚かな思い込みの修正を迫られることもたびたびだ。ここからは一般論を離れて私の個人的な体験を綴ってみたい。そうすることいで、日本の水産業、漁労従事者の生活のごく一部でも見えてくると思うからである。
我が家の先祖は漁師であったらしい。らしいと言うのは、私は実際には生活として体験していないからである。祖父は国鉄職員で関釜連絡船の乗組員であった。
曾祖父の時代は明らかに漁師であった。祖父も子供の頃は漁師の子として育ったらしく、漁網を手編みするのが特技で、私の子供の頃には漁網の制作を内職としておこなっていた。 父はサラリーマンであったが、漁業会社に勤務していた。私も35歳で親の面倒を見るために下関に帰郷し、ハローワーク(職安)で職を得たのだが、変に株主に信頼されてしまい、成り行きで仕方なく経営をさせられていたのも水産加工業であった。どうやら私の血の中には、海に関する遺伝子が流れているらしい。
そんな私が先祖返りかなにか、突然、漁師になりたいと思い立ったのは十数年前のことであった。
私は職業上のコネをフルに利用し調査を始めた。山口県漁連を始め、各地の漁協にコンタクトを取った。漁業に関する統計調査資料がもっとも揃っていたのは、驚いたことに、県漁連ではなく山口県庁だった。
当たり前だ! と言われるかも知れないが、私にとっては驚きだった。
最初に印象的な出来事は、某漁業協同組合の副組合長と話したことだった。彼は四十代半ば年齢で漁村の若きリーダーであり、町会議員も務め、九州、四国、中国地方の一本釣り漁師のネットワークを作り、情報交換し漁民の生活向上を図っていた。一応、H氏としておこう。
「谷さん一本釣り漁師は良いですよ、私には子供が二人いますが二人とも女です。男だったら躊躇いなく漁師にするんですが……」
「男でないと駄目ですか?」
「駄目という訳じゃないんですが、何と言っても漁師は“板子一枚下は地獄”は今でも言えることです。それに激しい肉体労働ですから娘にやらせるわけにはいきません」
漁師の夫婦は、男女の役割分担が確立しており、どちらかが欠ければ漁で生活することは出来ないと言われた。漁村というと男の漁師が主人公のようだが、女性の力は絶大であり、実に威張っているのである。
「谷さんの新規就労を私は勧めます。出来る範囲で応援もします。ただし、しがらみがなく、新たに始めるのなら立地条件を考えると、角島での就労をおすすめします。漁場に近いんです。海は広くとも漁場は限られています。ここからだと近くの良い漁場に行くのに2時間は掛かります。ところが角島だと、30分で行けます。これは、かなり決定的なことです。そう言った意味で、今の日本で最も有利な漁場は、豊後水道です」
豊後水道とは、大分県の佐賀関と愛媛県の佐多岬が有名である。関サバ、関アジのブランドが知られている。
「素人でも、生活していけるんでしょうか?」
「出来ます、出来ます。一年間は指導漁師について習うんですが、その制度も出来ております。むろん修業期間もそこそこの収入は得られます」
普通は脱サラをして、新規就労を志しその道の専門家に意見を聞けば「甘く見るんじゃない!」と叱責されることが多い。相当の覚悟をしなければ駄目だ! と言うわけだろう。それは、真実だと私は思う。
ところが、H氏は心配なんぞをするな! と言うのである。私の想像上の楽観論を遙かに超えた、超楽観論を仰るのである。これは、その後に訪れた漁協でも同じように何度も言われた。
我々は、漁協経営の小綺麗なレストランで昼食を取りながら話していた。
「谷さん、ただし、ここで就労しても組合員にはなかなかなれません、準組合員なら大丈夫です。漁獲による収入、漁協施設利用には差別はないのですが、準組合員には漁業権がありません。まあ、見て下さい」
と言って、H氏は私を二階のレストランの窓辺に誘った。眼下には、新しくできたヨットハーバーが広がっている。ここの権利は漁業権がもとになっています」
そう言いながら、H氏は漁業権に関する悩みを話し始めた。むろん、漁業権と言っても単純に操業する権利ではなく、今日では、利権、既得権が入り交じって浅ましい様相も見せている。私は別に驚きもしなかった。悲しいかな一般社会では、あちらこちらで散見されることだ。
もとより私は漁業権(財産権)なんぞは問題にしない。ただ、自らの力で魚を捕って生活の糧にする真面目な漁師になりたいのだ。
ここで漁業権について少し書いてみよう。漁業権とはその名の如く特定の水面において、特定の漁業を営む権利である。都道府県知事から免許されることによって、一定範囲の漁業を営む排他的財産権である。以下面倒くさいので、解説なしで箇条書きにする。
漁業権の種類
@定置漁業権
A区画漁業権(第一種から第三種まであり)
B特定区画漁業権
C共同漁業権(第一種から第五種まであり)
漁業権の権利主体
@Aについては免許を受ける漁業者個人。BCについては、漁業協同組合もしくは、 漁業協同組合連合会。
今日の漁業権は、昭和24年(1946)12月に交付された。日本民主化の一環として連合軍総司令部の指示を受けてなされた。この結果、先願権をもった個人や経営体の独占的かつ、永久的な漁業権から漁民の共同利用へと変革した。
同じ時期になされた、農地改革ほど有名ではないが極めて画期的な制度である。
H氏からは色々教わってとても感謝している。これは漁民の性格かも知れないが、その後に訪れた漁協でも同じような好意を受けることになった。よそ者を警戒しない。むろん排除などとんでもなくすぐに仲間として接してくれるのだ。
そのことを、角島の組合長に直接ぶっつけてみた。するとその組合長はいった。
「確かに儂ゃあ、この組合の人間だ、しかし、捕った魚を必ずしもこの港に揚げんでもええんじゃ、高く買ってくれるところどこに挙げてもええんじぁ、特牛の港に停泊中の、イカ釣り船、りゃあ、対馬の船籍だが、二ヶ月もここにおる」
まして、海が荒れたときなど最寄りの港に逃げ込む。つまり、いつも自分がよそ者になる可能性があるというのだ。
それだけが理由とも思えぬが、まあ年寄りの組合長に取りあえず敬意をはらおうか。
漁業権にまつわる、利権、既得権の浅ましい姿さえなければ、漁村は天国かもしてない。これは、一般社会にもいえる。“春風が吹いているときは、みんないい人だ”
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